視界が動かせず頭が上手く回らない老将軍の、目の前の小さなつま先が動いた。
コツンと、澄んだ音を立てて近寄ってくる足取りは、いかにも軽やかで迷いが無い。もはや、ルルーシュにとっても、この場は戦場では無くなった。
「チェックだ。」
宣告が、成される。
それはどこまでも無情に、老将軍の死を決定している。
ピチャン、と。
床と、動こうとしない小さな足しか写さない視界に、血が数滴落ちていった。
（あぁ、早く止血をしないといけない。貴方は体力が無いのだから）
思ったが、体はもう動く事は無いだろうと、老将軍にも判っている。そもそも、ルルーシュは何ヶ月も前から、怪我の治療を他人にやらせようとしなかった。
頑ななまでに。
（――なぜ、）
浮かんだ疑問が像を成す前に、何も感じさせない、声が降ってくる。
子供の、音。
それなのに、子供には有り得ぬ感情の、無さ。
「…この身に流れているのは、呪われた血だ。」
子猫を、抱いていた皇子を思い出した。
小さな、黒い子猫だった。
緑色の目をした、何処から迷い込んできたのかさえ判らぬ、小さな小さな子猫。
老将軍がその存在を知ったのは、ルルーシュを教え始めてから数ヶ月が経った頃だった。まるで人の形をした黒い子猫が、同じ子猫を抱いているようにも見えて、内心微笑ましく感じたものだ。
その猫を、彼は2度しか見ていない。
どちらもルルーシュの腕の中。一度は咽を鳴らしながら。…一度は、既に冷たくなっていた。
『何処か、埋められる場所を教えてくれないか』
普段と変わらぬ声音と表情で言われたその意味を、老将軍は理解する事が出来なかった。
（なぜ、死んだ？）
ルルーシュは、手に怪我をしていた。
手当てをしようとする老将軍を拒んだのは、思い返せばその時が始めてだった。そして、それからは老将軍が手を出す前に、自分で怪我の治療を行なうようになった。
――『流血』を、厭うようになった。
目の前を、また、血が一滴、床に落ちて、紅い飛沫を作る。
『何』も、『起こらなかった』。
そう、ルルーシュの『血でしとどに濡れた』ナイフを、身に受けた以外は。
――この身に流れているのは、『呪われた血』だ。――
（死んだ、のは、）
強張った表情に気付いたのだろう、ルルーシュが淡々と続ける。
「思い至ったか？
そうだ。たった数滴の血で、猫も殺せる」
また一滴、血が跳ねた。
「――…猛毒、だ。」
単に、毒に対する耐性を付ける為だった。家族を、毒から護る為だった。それだけだったのに、いつしかルルーシュ自身が毒そのものと成っていた。
血の代わりに毒の流れるからだ。
傷口を治そうとして、血を舐めとった温かい生き物を,ころしてしまえる、からだ。
「…もう、猫は飼えないな。」
我が身を蔑んで、ルルーシュは笑った。
老将軍には、その表情を知る事は出来ない。声は、変わらない。
変わって、くれない。
「……貴方は、生まれてきてはいけなかった」
心からの同意を込めて、ルルーシュは頷いた。老将軍とは、正反対の心地で。
「まったくだ。」
（こんな場所に、生まれてきてはいけなかった。）
もっと、別の。あたたかい場所で、ただの子供として。無条件に、庇護される命として。
その優秀過ぎる能力こそを、殺せる場所であったなら。
「…殿下、ひとを、殺した事がおありか」
「いいや、お前が初めてだ。」
声は至って平静だった。これからひとを殺す子供のものとは思えぬ程に。
「ならば覚えておきなさい。その者の体温を、声を、感情を。…そして、それを背負わねばなりません。」
「最後の指南か」
「えぇ、最期の――」
（殺せていれば、良かった。）
老将軍は思ったが、それは決して出来なかっただろう。彼にこの子供を殺す事は、きっと、初めから不可能だった。
――それでも、殺すべきだったのだ。
（貴方にとって、この場所こそが、煉獄なら）
何を以って、慈悲とするのか。
「――私は、お前を好いていたよ」
同じ声音で、またルルーシュが言った。
自然とルルーシュの口から滑り出た言葉だった。
老将軍は愕いた顔をしたが、言った張本人であるルルーシュも十分驚いていた。口に出して初めて、自分がこの教育係に好意を持っていた事に気付いたのだ。
そして、納得した。
ルルーシュにとって世界はいつでも戦場だった。老将軍の側でさえ、それは変わらない。
だが、まるで戦闘と戦闘の合間のインターバルのように、老将軍の側は微かに落ち着いて息が出来る場所だったのだ。
息を、つく事の出来る、場所だった。
（…それでも、）
「感情は、…必要ありません」
「すべてを押し殺し、研ぎ澄ませろ――お前の、教えだ」
「えぇ、そう、です。…貴方は、私の…最も優秀な、生徒でした…」
「シュナイゼル兄上よりも？」
皮肉を込めずに訊けば、老将軍は疲れたように笑った。にがい、笑みだ。
「……やはり、貴方は優、…秀だ」
言葉に、ルルーシュは床に落ちている剣を手に取った。子供の手には重過ぎる、老将軍の、剣。
柄に血がベッタリとこびり付く。それさえも、毒。
（成人した人間には、量によっては致死に至らない、か。）
冷えた思考で、ルルーシュは考察した。
感情は、無い。先程感じた驚きも、もはや殺し終わっている。
もう聞き出したい情報は無いから、後は止めを刺すだけだ。機械的に、剣を構える。
「……殿、下」
まだ何か言いたい事があるのだろうか。ルルーシュはその変わらぬ鉄面皮を眺めた。
「貴方が、『特別』を得る、日が来る事を……いつの日か、どう…か」
「特別なら既にいる。」
ルルーシュが命を投げ出す程の存在が。
ルルーシュは答えたが、老将軍は取り合わなかった。――いつかの様に。
「そうでは、無い…の、です。
そうでは無く、貴方が、いきて、いく…為の、『特別』な方を――」
（…しあわせに、なれる…場所を、）
老将軍は眼を合わせようとしたが、ルルーシュのそれと、合う事は無かった。
決して。
「生きて、下さい」
それが、彼の、最後のことばだった。
「…祖父の様に感じていた、と言ったら、お前の鉄面皮はどう変わったのだろうな。」
単なる肉塊と化した『物』を前にして、ルルーシュはぽつりと言った。
もう、それは2度と分かる事の無い問いだ。
永久に。
ルルーシュはその濁った眼球を見詰めた。
手に、肉の感触はまだ、ある。
剣がずぶずぶと沈んでいった言いようの無い不快感も。
それでも、何も感じなかった。
氷の刃は、そんなものを感じはしない。
その一件は、内密に処理された。――させた、という表現の方が正しい。
『将軍が乱心し、皇子に殺された』だけでも十分にスキャンダラスな話だが、『第八皇子が乱心し、将軍を殺した』方が、余程に周囲が喜びそうなネタだった。わざわざそんなネタを提供する気はルルーシュには無い。
何より老将軍の背後にいた人間を、最初からルルーシュは知っている。老将軍本人からの、確認も取れた。――第二皇子、シュナイゼルの母妃だ。
シュナイゼル自身ではない。あの義兄はこんなにも直接的で、すぐに明らかになるような手は使わないし、ルルーシュに手を出そうとはしない。今の内は。
シュナイゼルがルルーシュを殺そうとするのなら、それは今ではなくルルーシュに利用価値が無くなるか、完全に己と敵対した時だ。――ブリタニア皇帝と、同じく。
ルルーシュから何かをするつもりは無い。そこまでルルーシュに力は無かった。相討ち覚悟で、捨て身になるならともかくも、母と妹が居る状態でそんな事は出来なかった。
『その時』は。
1年が過ぎて、母が殺されるまでは。
ルルーシュはもう一度、手を血に染めようとは、思わなかった。
2006.12.14