まやかしにも似た、『教育係と生徒』ごっこの終わりは、やはり唐突にやって来た。
何時だって、「終わり」とはそういうものだ。


特に何の変哲も無い夕暮れ時だった。
季節が夏に近付くたび、その時間帯は遅く、短くなってゆく。一瞬だけの、空の彩色。
美しく整えられた空中庭園に面した通路で、見張りの兵士達は居ない。ただルルーシュと、それに付き従う形で歩く老将軍の影だけが、後ろに流れ、伸びていた。
足音や動物の、虫の鳴き声以外の音が聞こえた訳では無い。何かが視界の端に写ったのでもない。
いつもの、指南の終わりの帰り道だった。

ただ、ルルーシュは『異変』を察知した。

何だろうと考える暇すら必要無かった。

(――殺気!)

瞬間、ルルーシュは振り向きざまに右に跳んだ。老将軍の、利き腕とは逆の方向。
続いて見えたのは銀の一閃と、左腕への鋭い痛み。――心臓の、真横の位置だ。
痛みを無視してそのまま間合いを取れば、まさか避けられるとは思っていなかったらしい、かつての『教育係』の少し青褪めた顔が、薄暗い通路に浮かんでいた。
――ルルーシュの『敵』である、暗殺者の顔が。


「…随分と手荒い『卒業試験』だな」
意外に、遅かったかもしれない。ルルーシュは平素と変わらぬ様子で老将軍に向かい合った。
ルルーシュのそれに、目の前の、剣を持つ右手が僅かに、震える。
「――始めは、そんな必要は無いと思っておりました。」
暗い声だ。『自分は望んでいなかった』と訴える声。
「しかし、貴方を教えていくうち、貴方の能力を知る度、危惧されていた事は真実であるかもしれぬと、私にも思えてきました」
告解を、ルルーシュは無感動に聴いていた。ルルーシュにとっては、この暗殺者が何を思おうと、もはや如何でも良い事だった。
過ぎ去った過程に意味は無い。向けられた剣の意味する結果こそが、すべてだ。
「…貴方は、生まれてきてはいけなかった。」
「全くだな、将軍。多いに賛同する。私も母の胎内に戻れるのであれば、何でもするだろうが、生憎と産まれ出てしまった。
もはや私を殺しても、この事実が消える事は無い。」
言葉を返しながら、ルルーシュは冷静に自分の状況と状態を把握する。
夕時。宮の廊下。庭に面している。逃げても子供の足ではすぐに掴まる。叫んでも見張りは来ない。
使える駒はたった『2つ』だ。
ルルーシュ自身と、目の前の『敵』。
「ですが、今の貴方の存在を消す事は出来ましょう。
それによって安堵し、喜ぶ方々がおられるのも、また事実。」
左腕から血が伝っていく。結構な量だが、急所は外れている。右腕しか自由には使えないが、左でも、振り抜く動作であれば、可能。
だが、出血は体力の無いルルーシュにとっては死活問題だ。止血は出来ない。気を逸らせば『敵』の剣はルルーシュの心臓を貫く。今のうちは、右手で押さえるしかない。
「判り切っている釈明を有難う。
大方、私の影響力が強まるのを恐れた愚か者だろう。このまま成長すれば、下位ながら必ず皇位継承争いに食い込むと先を恐れたか…。
思考回路は悪くないが、着眼点がズレているな。
私は王になるつもりは無い。」

『振り抜く動作』ならば、可能。

(それで、十分。)
「…誰も、それでは安堵できないのですよ、殿下。
――貴方は優秀に過ぎた。」
たった8歳の子供に、恐れを抱く程に。
「そして愚鈍であったなら、今度はそれを理由に殺される。
最終的な結果が同じならば、少しでも母上とナナリーの為になる路を選ぶだけだ。」
だからこその、対峙。
「――…貴方は、生きたいと思った事は無いのですか。」
いつかと同じ問い掛けを、老将軍はした。
今から殺そうとする相手に何を言うのか、と呆れるでもなかったが、ルルーシュは答えを返してやった。
産まれた時から、決まっていた答えだ。

すなわち。


「ない」


自分は氷で出来た刃なのだから。





元々、力の差は明らかだった。
そもそも最初の一閃を交わせた事が、奇跡にも近い僥倖だった。――もっとも、『感情』というファクターを取り入れた瞬間に、それは奇跡ではなく「必然」であったが。

(それで、十分。)

もう一度だ。
もう一度だけ、その斬撃を躱せば良い。それだけがルルーシュに架せられた命題だった。
この場に於いては。
ルルーシュの左手の中指から、ぽたりと一滴、血が落ちた。ルルーシュが何より忌み嫌う『呪われた』血。袖の中はそれによってしとどに濡れている。――『中にある物』も。
老将軍の右足が動いた。
と同時に、知った軌道の冷えた刃が真っ直ぐにルルーシュへ襲い掛かる。
(狙うは、左――っ!)
心臓や首筋はいけない。それでは避けられてしまう。「必死の悪足掻き」に見えなくてはいけないのだ。それこそが、意味を持つ。
大切なのは「致命傷を与える」事ではなく、「確実に一撃を突き刺す事」だ。
(研ぎ澄ませろっ、自分をこそ殺しきれ!)
繰り出された剣先に向かって自分から飛び込めば、微かに動揺が生まれた。
怯んだそれを見逃さず、ルルーシュは一気に懐に潜り込む。
紙一重で躱すなんて悠長な事は言っていられない。切っ先が脇腹を薙いだが、痛みを瞬時に殺し切って構う事無くルルーシュは左腕を『振り抜いた』。
他の動作は一切必要無い。それだけで、ルルーシュの袖口から自身の血にまみれたナイフが投げられる。
――真っ赤な『血』の飛礫と共に。
敵わぬと判っていながら、それでも投げられたナイフを、老将軍は哀れみでもって受けた。確かに不可避ではあったが、避けようともしなかった。
ずぷりと、的を違わず左の肩口、深く肉に食い込んだそれは、これから死に逝く小さな皇子への餞別のつもりだったのかもしれない。致命傷にはならず、けれど、痕は残る程に深く。
それは、感傷でしかない。
『感傷』。
戦場では、在ってはならぬこと。
「…愚かな。」
再び開いた距離で体制を立てて、上がった息をルルーシュは整える。
もう、『遣るべき事』は、終わった。
「私なりの、誠意の在り処です。殿下。」
老将軍はナイフを引き抜きもせず、今度はゆっくりと、間合いを詰める。
…『ルルーシュの血』ごと、刺さった、ナイフを。
これ以上苦しませない様に、とでも考えているのかも知れないと、ルルーシュは判断した。
ルルーシュはもう動こうとはしない。

(愚かな。)

力の差は、明らかであった。
『剣技』においては。
「――お前が、私の剣を受ける事は判っていた。」
静かに、ルルーシュが囁く。
「殿下?」
老将軍は途惑った様だった。
彼はルルーシュが命乞いや、死を恐れた時間稼ぎをしない事は理解していたからだ。そして、それをルルーシュは知っている。
「それは同情であり、お前の良心の呵責であり、私への好意の顕れだ。
お前が、私に教えた全く逆のものだ。」
「…私と対等に戦えるとでも? 殿下、私と貴方では力の差が有り過ぎる。ここは戦場にはなり得ない。」
感情を殺す必要さえ無いと言う。
ルルーシュは失笑した。ルルーシュにとって、戦場でない場所など、母と妹の側にしか、無い。
世界は、全てが戦場だった。
「本来ならば、背後をとった時点で一撃の下に私を殺せるはずだった。」
脇腹の傷も、やはり浅い。『本気』で殺そうとしたなら薄い子供の体など、少なくとも内臓までは確実に届いた筈だ。
「だが出来なかった。余計な情がお前の剣を、殺意を鈍らせた。お前の殺気を外に洩らせた。お前は自分こそを、殺しきれなかった。
――『油断』をしたな? 将軍。 ここは、『戦場』だ。」

突如、老将軍の視界がブレた。
何が起こったのか彼には分からない。何も『起こっていない』筈だ。
考えられた時間は一瞬。
ブレは起こった瞬間と同じく、唐突に止む。左半身への衝撃によって。
――平衡感覚を失った身体が、床に叩きつけられた事によって。


僅かに一瞬だけ視界の端に写った幼い皇子の顔は、泣いている様に見えた。








2006.12.13