研ぎ澄まされた氷の刃である事を、ルルーシュは自分に命じていた。
鉄で鍛えられた剣より鋭く、そして後には水しか遺らぬよう。感情一つ無く、一振りの刃である事を。
ルルーシュは自分が感情的な性質であると、自覚している。殊更、負の感情においては。
『強い感情は力になりますが、同じだけ、切っ先を鈍らせるものです。』
同感だ。感情は行動を起こす為の原動力と、成し遂げる為の推進力にはなるが、アクションそのものには邪魔なものでしかない。
『研ぎ澄ませなさい。五感すべてを。そうすれば、自分がどう動けば良いのかは、貴方の頭が示してくれる。』
教えられた通り、ルルーシュは総ての感情を殺した。その瞬間だけ。怒りも、憎悪も、敵意や殺意も、家族への想いだって消した。自分を切り離す事には慣れていたから、難しい事ではなかった。ただ脳髄の判断するままに動いた。切っ先にだけ意識を集中させて、自分が血潮の通わない、冷たい氷の刃である事だけを望んだ。そうすれば、ルルーシュは何だって出来た。
『貴方は強く在らねばなりません。貴方の敵は多く、貴方を護れる存在は居ないのだから。』
老人の教えは今でもルルーシュの中に息づいている。これからも。
ずっと。
老人はルルーシュが剣を教わり、まるで祖父の様に感じていた人間だった。
生まれて初めて、その手で殺した人間だった。
ルルーシュが産まれた時の皇位継承権は12かそこらであった。
既に数人の義兄は亡く、彼等が死ぬ度にルルーシュの継承権は上がったし、義弟や義妹が産まれればそれに伴い下がっていった。
ルルーシュの母妃は騎士候の身分を持っていたが、元々は単なる平民に過ぎない。
成り上がる為に美しい娘を探していた貴族に金で買われ、社交界での立ち振る舞いと高度な教育を叩きこまれた女。それがルルーシュの母親だ。
別段、珍しい話ではない。中流貴族が自分の娘や養女を上流貴族に嫁がせる事も、同じような位の家柄同士で娘を交換でもするかのように嫁ぎ合わせる事も日常的に行なわれている。家計の切迫した民家から美しい娘を買う事でさえも。
ただ、普通でなかったのは『その後』だ。
ルルーシュの母――マリアンヌは真実、美しかった。誰もが眼を止める程に。ブリタニアの皇帝でさえもが眼を奪われる程に、美しかったのだ。
もし、マリアンヌの容貌がもう少し凡庸なものであったなら、嫁いだのは中流ないしは、そこそこ上流の貴族の家であっただろう。それならば命を狙われる危険もなく、少し肩身は狭くとも幸せな『家庭』を築けた筈だ。
けれどマリアンヌは絶対権力者に望まれ、それによってブリタニアで最も醜悪な陰謀の渦中に放り込まれた。最も低い地位の『庶民の出』の皇妃として。
『血』の無いマリアンヌの地位同様に、彼女の産んだ子供の地位も低い。ルルーシュもナナリーも、皇位継承権はいつだって周りに左右され変わっていった。
ルルーシュはそんなものに興味は無かった。望んだのはいつだって、『家族』の平穏だけ。
それを護る事以外、ルルーシュは望まなかった。
「あなたはお腹の中にいた時から私を護ってくれたわ」と笑ったのはマリアンヌだ。
それは確かに真実だ。半分だけ。
ルルーシュが皇子として生まれた事で、母親のマリアンヌ皇妃の立場を強くしたのは事実だが、同時にそれによって、母子に対する風当たりが強くなったのも確かだ。
ルルーシュの非凡さが、それに拍車をかけた。
ただ幸か不幸か、ルルーシュは皇帝が偏愛を与える程に優秀だった。その小さな、けれども誰よりも優秀な頭で考え、幼く愛らしい仮面を被り、持ち得る総てを駆使し、必死で自分の家族を護っていた。――護ろうと、していた。
ルルーシュはとても愛らしい子供だった。そういう風に、見せていた。
母親そっくりの美貌に、父親と同じ紫水晶の吊った大きな目。ルルーシュは誰にでも優しく笑いかけ、誰におもねる事も、誰かの威光を借りる事も厭わなかった。母と妹を護る為ならば、ルルーシュは何でもした。そんな事ではルルーシュの誇りは少しも傷つかなかった。
ルルーシュにとって大切なのは『家族』を守れるかどうか。その一点だけで、ルルーシュ自身が誰にどう思われようと、どんな扱いを受けようとも、如何でも良かった。
母と妹の存在こそがルルーシュの誇りであり、存在し続ける事の意味であり、死ぬ為の理由だった。
それが、当時のルルーシュの、全てであった。
たとえ継承権が低くとも、一様に教育は受ける。
権力の大きさによって、やはり「上乗せ」は変わってくるが、ルルーシュは特にその必要性を感じなかったので教育係を変える事も、より高度な教育を受ける気も無かった。本を読めば教わらずとも理解できる事ばかりだったし、皇帝の勝手の所為で、様々な会議を見学「させられて」いた為に時間が足りなかったのだ。
剣技と護身術の授業も特に指名もしなかったし、望むべくも無かった。にもかかわらず、遣って来たのは第二皇子の教育係でもあった老将軍だった。
(――狙いが明け透け過ぎる。)
ルルーシュは内心、厭きれ返るばかりだったが指南は従順に受けた。
――すぐに終わりが来ると、理解しながら。
意外にも、老将軍は本当の意味での『教育係』だった。
馬鹿げた追従も、生まれの悪い皇子に対する侮蔑もなく、怪我をさせる事への戸惑いも無い。ただ戦場での心得と技術を、変わる事の無い鉄面皮でルルーシュに叩き込んだ。…初めてルルーシュに自分が非力な子供でしかないと、実際に思い知らせた人間でもある。
「貴方は頭脳明晰な方だと伺っております。特に戦術や戦略においては天才的だと。」
「子供の浅知恵だ。」
ルルーシュは一応謙遜してみせたが、老将軍は取り合わなかった。
「そういった方は何も体に覚え込ませなくて良いのです。
基本と『動ける体』を作れば事足ります。」
「『動ける、体』?」
「殺気に相対した時、冷静さを失わずに脳の命ずるままに動ける体です。そして貴方が相手を害そうとする時に望む様に動く事の出来る体です。…失礼ながら殿下はどちらもお出来にならない様ですので。」
「随分とはっきり言う」
「勉学と違い、こればかりは誤魔化しは効きません。ご自身の肉体一つだけが、全てを左右するのです。」
(誤魔化し、ね)
なるほど、とルルーシュは頷いた。
「良く判った、将軍。しかし本当に良いのか? 体に覚え込ませなくて?」
「殿下は優秀な――」
「お前は何一つ私の噂を信じていない。」
遮って、ルルーシュが断言した。
「それなのにその噂を判断材料にしている。」
老将軍の片眉が寄った。思考が読まれていた事への驚きにだ。
「カリキュラムを組み直した方が良いんじゃないか?」
「……いいえ、その必要は無いでしょう。」
「ふぅん?」
「以前、殿下が打たれたチェスの布陣を見せて頂きました。真実ご本人が打たれたのか確信は無かったのですが、確かに貴方は優秀なようだ。…今の会話だけでも、理解できます。」
「そうか、それは良かった。」
鉄面皮のまま老将軍が言ったので、ルルーシュも無感動に言った。
短剣から始まり、長剣、儀式用の舞踏、素手での格闘術、拳銃の扱い方と習っていったが、拳銃以外はどれもこれも基本止まりだった。剣術は『得意』な方ではあったが、如何せん力と持久力が無い。数年後なら兎も角、子供の小さな身体では限界はすぐに来る。
老将軍の方も、それは熟知していたから、特に何も言わなかった。単に『生徒』の成績に興味が無かったのかもしれない。ルルーシュの場合、横からあれこれと口出しするような後ろ盾は持っていなかったから。
ただ、ルルーシュは『眼』が良かった。相手がどう動くか、自分はどう動けば良いのかという戦況把握の能力は、確かに高かった。だから力や技術で圧すよりも、精度を上げて針の穴に通すかのように、鋭い一撃を入れる方向に専念した。
一番相性が良かったのは拳銃とナイフだ。短剣とは違う、もっと小さくて軽いもの。袖口に仕込んで暗器代わりにもなるような物だ。拳銃もそうだが、相手に近付く事無く、僅かな動作で全てを終わらせる事の出来る、武器。
ルルーシュはどうしても接近戦は不利だったが、この武器なら小さな体を生かして『敵』の懐に入り急所を穿つ事は出来る。――『敵』はいつでも体躯の良い大人なのだから。
『動ける体』を作るのに、そう努力は必要無かった。ルルーシュは老将軍が愕くほど殺気に敏感で馴れていたし、理想的でないにしろ及第点の俊敏性は得ることができた。
そうなれば、ルルーシュは老将軍の言葉通り自分の判断力で窮地を切り抜ける事が出来る。
何も問題は、無い。
体力以外は、問題が無かった。
訓練は、通常の半分ほどの時間でいつも切り上げられた。
ルルーシュは平均以上に体力が無い。幼さだけが理由ではなく、後天的な、ルルーシュ自身が招いた理由で。
毒を、飲んでいるからだ。
毎日、毎日少しずつ。様々な種類の毒を自分から進んで飲んでいった。
体内に蓄積されるタイプのものには手を出さなかったが、少しずつ量を増やし、身体を毒に慣らしていった。
知っている者は殆ど居ない。毒を手に入れるルルーシュの手の者と、老将軍だけだ。マリアンヌは知らない。何があっても、ルルーシュは知らせない。
代償は勿論あった。
いつも微熱続きで、身体が重い。量を間違えて死にそうになるなんて間抜けな事は無かったが、小さな身体が負過に堪え切れず高熱を出した事が一度だけあった。
そして、それらは容赦なくルルーシュの体力を奪っていった。
毒を以って毒を制し、毒に対する耐性をつける。それは毒殺に対する有効な手段ではあったが、愚策の一つでもある。
(きっと、自分は永くは生きられない。)
ルルーシュは自覚している。
それで良かった。大切なのは、母とナナリーの完璧な安全か、自由を手にするまでの時間であり、その後の己の未来に興味は無かった。
(じゆう、に)
その言葉はルルーシュには難解だった。皇位継承権を放棄したところで、彼女達の利用価値は消えない事は明らかであり、かといって王宮は陰湿で、血生臭く、窮屈だ。
(自由に、なるとはなんだ。)
ルルーシュは本当は彼女達を『自由』にしたかったが、その方法が分からなかった。だから、まず先に足場を固める事にした。広さは必要無い。ルルーシュが死んでも、母親と妹が立っていられる程に強固な足場を。
皇子として生まれた事を一番喜んだのは、マリアンヌでも後ろ盾のアッシュフォードでもなく、ルルーシュ自身であった。皇子である事が、ルルーシュにとって自身の利用価値を大きくした。ルルーシュにとっての『武器』は、いつだってルルーシュ自身でしかないのだから。
…それでも、ルルーシュも皇女であったか、ナナリーも皇子であったかしたならば、ルルーシュの負担は減っただろう。皇女二人なら母も目立つ事は無く、皇子二人なら今よりも余程強くなった筈だ。
けれど、そうはならなかった。――だから、ルルーシュしかいない。
ルルーシュの家族を護れるのは、ルルーシュしかいないのだ。
老将軍はルルーシュの最も効果的な『愚行』について、何も言わなかったし、鉄面皮が崩れる事も無かった。
何処に居ても喧しいだけの王宮内で、それは中々に貴重なものであり、唯一「何も考えずに」いられる時間だったのだ。
老将軍はルルーシュの考えに意見する時もあったし、ルルーシュの私生活において、手伝う事さえもあった。ナナリーにあげる花の刺抜きを手伝ったのも彼だったし、密かに飼っていた子猫が死んだ時に埋葬を手伝い、傍に居たのも彼だった。――けれども、老将軍は立ち入る場所を、その位置を決して間違えはしなかった。
それが何よりルルーシュには重要だった。
「気を張る必要の無い他人」である事。老将軍がそれを破った事は、当時のルルーシュにとって決して短くなかった付き合いの中で、たった2度だ。
一度はルルーシュが高熱を出して倒れた時。
流石に教育係として放置して置けなかったのかもしれない。忠告を切り捨てたルルーシュに対して、珍しくもいつもの鉄面皮を苦々しく歪ませて、指南の終わりに、ぽつりと言った。
「もっと、ご自分を大切になさったら如何ですか。」
ルルーシュはこの老将軍を憐れに思った。自分に情でも移ったのだろうか。
「大切にしてどうする。使えるものは擦り切れるまで使うだけだ。」
使えるうちに。それが有効であるうちに。
自分の、命でも。
「――貴方は生きたいと思ったことは無いのですか」
それはまるで異国のことばに聞こえた。
2006.12.12