長時間座っていても疲れの来ないよう高品質の素材だけで作り上げられた車内の座席。
3人は優に座れるそこをカレン1人で占領し、向かい合わせの座席にはナナリーと咲世子の2人が寄り添って静かに座している。咲世子の手元には折り畳まれた車椅子と、所要品の詰め込まれたボストンバックが一つ、所在なげに置かれていた。
もっと何か持っていくものとカレンは思っていたが、あまり大荷物だと勘付かれるし大切な物は元々増やそうとはしなかったから、と返されて、彼等がこんな日がいつか来る事を笑顔の裏側でずっと予期していたのだと、カレンは知った。
黒塗りの、いかにも「要人向け」といった感のある車の中で女3人。
ゼロと乗った時――行きはC.C.だったが――も感じた事だが、一分の隙もなく無く真っ黒に塗り潰されれいる窓の所為で、十分な光が与えられているのにカレンには車内が薄暗く感じられた。
耳が痛くなるような、薄暗い閉塞感。
真っ暗なのはカレン達に目的地の在り処を知らせない為と、外の人間の目からカレン達こそを護る為だと理解していはいるものの、まるで怪物の胎の中へ運ばれているような漠然とした不安が拭えずにいた。
(ナナリーは、いつもこんな気分なのかしら)
自分の存在する世界を知る事の出来ない、畏れ。
己の行き付く先を、自分自身で決められない恐怖。
思った途端、ナナリーが落ち着いた声を掛けてきた。不安など微塵も感じない音色。
「私達はどこへ向かっているんですか?」
「キョウトだと聞きました。――…正確な場所までは分からないの、ですけど」
たどたどしい敬語で返せば、ナナリーは微苦笑したようだった。
「カレンさん、そんな無理をして敬語を使わないで下さい。今まで通り、私はただの『ナナリー』です」
むしろそんな急に他人行儀に接されると悲しいです、と懇願されてカレンは「わかったわ」とすんなり受け入れた。
カレンとしても、つい昨日まで後輩だったナナリーに敬語で話すのは違和感があったので、それは中々に有り難い申し出だったのだ。
「クラスメートで同じ生徒会役員の妹」が、突如として「命を賭けて護る主の妹」となったのはつい数時間前の事で、頭の回転は速い方だとカレンは自負しているが、こうも事態が急転すると流石に混乱して何がなんだか追い付けない。急転したのが、本来全く関係の無い場所であったのだから尚更に。
無関係であった筈の――そう、彼等にとってはおそらく『箱庭』であった学園で。
どうしても行く気になれず「サボろう」と決めていた学校にゼロの名前で呼び出されて、けれど覚悟を決めて登校した先で待っていたのはカレンの『覚悟』とは全く別の事態だった。
事態――と言うのは可笑しいのかもしれない。少なくとも、ある一人を中心に起こっていた騒ぎを除けば、まだその場所は平穏に見えた。カレンの目には。
水面が揺らがないからといって、そのずっと奥底の深海で何が起こっているのが、何が動いているのかカレンには判らない。それでも、カレンの目の前に座る少女の兄は全てを知っているようだった。
彼は焦ってはいなかった。ただ、受け入れて。
そうして、諦めていたようだった。
何かを諦めて、そしてそれでも何かを決意した強い光を双眸に宿して。
その紫眼でもって告げられた事実はまさに驚愕としか言い表せないものだった。
――『俺が、ゼロなんだ。』
ナナリーの兄であり、カレンのクラスメートであるルルーシュ・ランペルージはそう言った。
まるで狂言のような信じられない言葉を、カレンが動揺しながらも受け入れたのはルルーシュが纏う空気が、ゼロのものであったからだ。あの絶対的な、王者の気配。カレンを導いてくれる道標の存在感。
「お兄様は、カレンさんに何処まで説明なさったんですか?」
「…ほとんど、何も。ただ、貴女達をキョウトへの道すがら護衛しろって」
実際、なぜナナリーがこうして逃げなければならないのかも、カレンは知らされていない。
護衛と言うのなら、カレンより屈強な男衆の方が適任だろうに、ルルーシュはカレンを選んだ。それはおそらく、ゼロとルルーシュを知り、ナナリーとしっかりとした面識のある人間がカレンしか居なかったからだろう。きっと、そんな人間世界中に1人か2人しかいない。だからこれは護衛という名目のただの付き添いだ。
もっとも、その2人いる内の緑の髪の少女ではなく、自分を選んでくれたのはカレンにとって中々心くすぐる事実だが。
「そうですか。相変わらずお兄様は内緒ばっかり」
「キョウトではサクヤという人が一緒に居てくれるってルルーシュが言っていたわ。…知ってる人?」
「神――サクヤ、さんですか?えぇ、昔遊んだ事のある方で、お友達なんです」
キョウトに居る人間と交友関係を結ぶなんて、一体どういう『昔』なんだろうと考え、そう言えばゼロもキョウトの重鎮と面識があった事をカレンは思い出した。
ゼロは、ルルーシュだ。
かつてカレンがゼロと疑い、けれど違った筈のクラスメート。ナンバーズ政策を酷評してみせ、それでも「何もしない」と明言した少年。
――…シャーリーの、想い人。
「背負うしかない」と言った言葉の重みが、「更なる血を流してみせる」と決意した覚悟の強さが、今になってカレンにも理解できた。彼女の涙を受けてなお、進んで行く強靭さが。
「あなたは、ルルーシュがゼロだと知っていたの?」
「…いいえ。お兄様は、私に何も言いませんでした。
きっと、今回の事が無ければ最後まで何も言わないままだったんだと思います。…カレンさんは、ビックリなさらなかったんですか?」
「――心底、驚いたわ」
戸惑いはやはり消えない。それでも、上回る納得があったから、カレンはナナリーの前にいる。
きっと、ナナリーこそが、ルルーシュの『理由』なのだろう。
ゼロとなった、『理由』。
ナナリーの為に、優しい世界を。その為だけに、ルルーシュは仮面を手にしたのだ。
何故ルルーシュがそこまでブリタニアを憎悪するのかは判らない。けれど、ナナリーの動かない足と見えない目が関係していて、そして目指す世界はきっと復讐の果てだはなく――愛情、の辿り着く園。
…仲の良い兄妹だと思っていた。お互いを想い合い、支え合っている兄妹を見るのは兄を喪ったカレンにはとても微笑ましく、羨ましいものだった。図らずしも、「平和な景色」を彼等に求めてしまうほどに。
そして、それは枢木スザクも同じだったのだろう。ブリタニア軍で、白兜に乗り前線で戦っていた彼と。
――枢木、スザク。
ルルーシュの親友であった彼を思い出して、カレンは胸がざわついた。
軍人だと知っていた。日本人である事を棄てた「名誉ブリタニア人」だと。だから、敵側の人間だと始めから知ってはいた。それでも実感は無かった。同じ日本人に対する共通感も、ブリタニア軍人に対する潜在的な敵対心もあったからカレンにとっては複雑な心境を抱く相手だったが、枢木スザクは穏やかで優しいクラスメートで、猫が好きなのにアーサーに構っては振られるを繰り返す日本人の少年だった。
ルルーシュやナナリーと笑い合う姿を見るのは好きだった。
とても優しい光景を見るのが好きだった。
「カレンさんはスザクさんとも戦われるんですか?」
「…戦う、わ」
みっともなく掠れて、その声を聞いた10人が10人信じないような声音であっても、カレンは頷いた。
――本当は、迷っている。戸惑って、いる。
ルルーシュにとって、おそらく学園での生活が平穏の象徴であったように、カレンにとってもあれは確かに心安らぐ日々だった。周りはブリタニア人ばかりでも、「自分の居場所ではない」と思ってはいても、生徒会に入ってからの毎日は確かに楽しかった。
血生臭い戦いの日々とは無縁の場所に、苛立ちと共に安らぎを感じていたのに。
なのに『平穏』の中の登場人物が戦場に――しかも殺し合いを演じた機体のパイロットで。そして、その驚きが整理できぬうちに彼は最大の敵、皇族の騎士となった。
「たたかう、わ。私は、ゼロが命じるなら、誰とだって戦う。例えその相手が枢木スザクでも、ゼロが戦うと決めたのなら私は迷わない。」
一番辛いのは、カレンではないのだから。
…――彼等を、見るのは好きだった。
日本人と、ブリタニア人が何の隔たりも無く笑い合っているのは嬉しくて――カレンはルルーシュもスザクもそれぞれ好きではなかったけれど――何もかも分かり合っている半身ような、一対のような空気を感じ取るのは好きだった。
だから、一番辛いのはカレンではない。
カレンより余程苦しんでいる人間が、ゼロが、ルルーシュがいるのに、カレンが辛いと、嫌だと弱音を零すわけにはいかない。
(だって、貴方は諦めたのでしょう、ルルーシュ)
何かを、諦めていた双眸。
2人で、あるいは3人で完成されていたあの幸福な空間を、もう諦めてしまっていた。
枢木スザクの存在を。
ならば血を吐くようなあの日の笑い声と同じ声で命じられれば、カレンは動く。
ゼロを、護る為に。護り抜く為に。
その心ごとなんて言わないから、せめて放たれる銃弾からは護る為に。
覚悟を、決めなくてはいけない。
「ゼロが――ルルーシュが、枢木スザクを討てと言うのであれば私は彼を殺すわ。その為に貴方達に恨まれようとも」
迷いや戸惑いが完全に消えなくても、必ず。
「…ごめんなさい」
「カレンさん?」
「貴女の方が、ずっと辛いのに」
「――いいえ。」
ゆっくりと、ナナリーは首を横に振った。
ルルーシュとは色も癖も違う、ふんわりとした長い髪が揺れる。音も立てずに僅かに広がった髪が、ナナリーの貌にくっきりとした影を作った。
「いいえ、だってスザクさんは知っていたんですから。ゼロの事とは、もっと別の。私達には逃れられようの無い事実を、知っていたのに」
「ナナリー様…」
今まで口を挟まず、静かに座っていた咲世子がそっとナナリーの手をとる。慰める、ように。
「ナナリー…?」
困惑を声に出したカレンに、ナナリーが頭を下げた。
「ごめんなさい。
お兄様が言えなかった事を、私はここで言えません。ごめんなさい。
でもそれは、カレンさん達を信じていない訳では無いんです。隠し通すしかなかった事なんです。」
――だから、それを知っていてスザクさんが『あの人』を選んだのなら、私はもう何にもあの人の事で傷付く事は無いでしょう。――
(あぁ、枢木スザク。貴方は知っているのかしら)
この、全身で「裏切るな」と叫ぶ少女の悲痛を。弱弱しさを。兄をひたすらに想う健気さを。一途さを。お前に棄てられた悲嘆を。
この無辜の慟哭を知っているか。
「カレンさん。」
強い口調でナナリーがカレンの名を呼んだ。
そこに篭められた力の純粋さと強さに、「あぁ、やっぱりこの子はあの人の妹なのだ」とカレンの心の奥深い所でじんわりと納得が広がっていった。
カレンの王の、妹だ。
「この先、きっと私達の――お兄様の隠していた事が少しずつ、もしかしたら一度に判る日が来てしまうと思います。」
だからこそ、私を遠ざけようとしているのだと思います、とナナリーは続けた。
「それはゼロとして致命的で、カレンさん達は受け入れられないかもしれない程の事です。」
「……そう」
「でも、それはどうしようもない事。誰にも変えられない事です。私達に流れる血は誰にも変えられない。
ですが、どうか――」
「ナナリー。」
ナナリーに負けない強さで、カレンはきっぱりと言い切る。
決意を、込めて。
「私が、護るわ」
強く、つよく。
迷いを断ち切って、ナナリーの不安を跳ね返すほど強く。
「必ず。何があっても、あの人が誰でも私は護り抜いてみせるわ。私は側を離れない。絶対に。」
私は、裏切らない。
「日本を取り戻して、貴女の下に彼を返してみせるわ」
わたし『は』。
咲世子の手に重ねられたままのナナリーの手を、更にその上からぎゅっと握り締める。
もう二度と兄を喪う『妹』を見たくなかった。
もう二度とあの引き裂かれるような笑い声を聞きたくなかった。
絶対に、喪いたくないひとが、できた。
「わたしは、ルルーシュを護る」
「はい……っ!」
かならず。かならず。
返しましょう。貴方達にあの箱庭を。
その時、側に立つ人間が一人足りなくても、代わりに私が立ちましょう。
貴方達がそれを赦してくれるなら。
「ありがとうございます、ありがとうございます……っ」
泣きながら、それでも気丈に微笑むナナリーに、カレンも見えないと判っていても微笑みかけた。
かならず。
誰を、討つ事になろうとも。
何時間も車内で座り続け、車ごと上がった先、ようやく着いたのはやはり室内だった。
咲世子が一番に降り立ち車椅子を組むのを待ってから、カレンはそっとこわれものを扱うようにナナリーを抱えて車内から降りる。
薄暗い室内の奥には何人ものボディーガードに囲まれて桐原が渋面で立っていた。カレンは直接桐原に対面する事は許されていないので、咲世子とナナリーに別れを告げてから、遠くに立つ桐原にぺこりと一礼して用意されている来た時とは別の車に乗りこむ。
その、刹那。
カレンに向けたのではない、この場に居る誰にでもない、ナナリーの小さな声がカレンの耳を打った。
ただ、一言。ぽつり、と。
「うそつき」
それが、誰に対しての言葉であるのか。
カレンはただ、彼等兄妹が、その兄が誰よりも心を傾けていた、一人の少年を思った。
護るべき場所を打ち壊した、友になれたかもしれない人を。
決して裏切ってはならない人達を、知らず裏切った、カレンの敵を。
思って、ないた。
敵の為ではなく、主の為に。
ただ、かわいそうな彼だけの為に。
2007.02.21 彼岸の報復