「ねぇ、枢木准尉。君は自分の行動の結果を本当に受け入れられるのかなぁ?」
いつものように笑って突き付けられる上官の言葉は、珍しくスザクに理解できないものだった。
スザクにとって精神を揺さぶる毒や刃のような言葉を吐く時、大抵ロイドはそれを判り易く喋る。スザクが理解できなければ、喋る意味が無いからだ。――果たしてそもそもランスロットのデヴァイサーに、そんな精神負担をわざわざ掛ける必要があるのかどうかは考えない。ロイドは単に面白がっているだけなのだから。
だというのに、ロイドの指し示す「行動」の意味も、「結果」も、何が言いたいのか判らずスザクはただ困惑した。
「ロイドさん?」
「君は距離を置くべきだったよ。どちらに対してもね。2人――あぁ、この場合3人かな? まぁ、ともかくどっち側に着くのか君は随分曖昧にしてた。片方にだけ近付く訳でもなく、自分では動かず相手の行動を受け入れてた。」
それが拙かったんだねぇ〜、とロイドはへにゃりと頭を下げた。
ご愁傷様。
残念でした。
そして、言う。

「受け入れたという『行動』の先にある『結果』を、君は想像もしてなかったのにね」



***



ギョッとしたような視線を集めている事を微塵も気に止めずにミレイはアッシュフォード学園の敷地をクラブハウスに向かって全力疾走で走っていた。
周りの視線が見ているのが自分の強張った表情なのか、ただでさえ短いスカートが役立たずにも捲れ上がっている点なのかすら、今のミレイには意識の外だった。
いつもは滅多に立ち入る事の無い、一生徒が私有するクラブハウスの一角へ『主』の許可無く立ち入り、疾走の勢いのまま部屋の扉を開け放つ。
「ルルーシュっ!!」
「――…ミレイか」
ガンッと大きな音を立てて壁に打ち付けられたドアの悲鳴を掻き消す威力で、ミレイは叫び声を上げた。
「申し訳、ありません……っ!!」
息が整わない所為で声が震える。いつだって余裕を持ち、自信に満ち溢れているアッシュフォード学園高等部の生徒会長の姿は、何処にも無かった。
途方に暮れた、18歳の子供。
「どうか、ナナリー様をお連れしてお逃げ下さいっ。ど、うか」
はやく、はやく。
お願いだから、ルルーシュ。私の――。
「あの、方が。あの方がいらっしゃいます。…だから、一刻も早くお二人はここを離れて下さい!この先はご助力できませんが、アッシュフォードの事は気にしなくていい、から、」
あぁ、もう言葉遣いが滅茶苦茶だとミレイは酸素の回っていない頭で恥じ入った。

「ルルーシュ、アンタは早く逃げなさい……っ」

なんで。
なんで、こんな事になったんだろう。
モラトリアムはまだ猶予があった筈だった。
少なくともルルーシュが学園を卒業するまでは手を出さないと『向こう』は確約してくれた。その後も、側に在るなら皇族としては死亡したままにし政治の道具とするでもなく、ある程度の拘束と制約はあるものの一般人と変わらぬ自由を与えようと。
最上の餌と、最大の安全を。
必ず鳥篭の中へ戻るのであれば好きに大空を羽ばたくがいい、と。
ルルーシュの命も権利も全てを握っている男にしては、考えられないほどの譲歩にルルーシュもナナリーもミレイでさえ、それを受け入れた。受け入れるより他無かったが、けれどそれ以上に、皇族である事が周囲にバレてまた何処かの敵対国に人質として送られる事や、アッシュフォードが隠匿してきた事を表沙汰にされるよりは余程有り難い提案だったのだ。
『向こう』にとってそれは全く利の無い誓約であるにもかかわらず、ルルーシュ一人を手に入れるその為だけに皇帝でさえも欺こう、と。

信ずるに足る約定だった。

――翻る筈の無いそれが、けれど破棄されてしまった。
「落ち着け、ミレイ」
ルルーシュが静かに促した。
けれど落ち着ける訳が無い。
見合い相手で暫定婚約者であり、ルルーシュを奪おうとする人間の部下である男からの知らせを理事長室で受けてからここまで全力疾走で駆けて来たのだ。
心臓は早鐘を打ち鳴らしているし、肺が縮こまっているのか息が上手く継げない。準備運動も無しに唐突に酷使した筋肉は限界を訴えており、立っているだけで膝が笑いそうになる。立ち止った所為で汗が噴出してきた。
今だって喋れば咳きこみそうになるのだ。
どうやって落ち着けと言うのだろう。
「兄上としても、今回の事態は予定外だったんだろう。仕方ないさ」
「ルルーシュ?」
なんでアンタはそんなに落ち着いているの。
うなじを汗が滑り落ちてゆく。産毛が濡れる感覚。けれど火照った身体にとって冷たいとは感じなかった。
浮かんだ疑問は、即座に新しく生まれた疑惑と違和感に塗り潰されてゆく。
「――ま、さか」
「ある意味において、これはあの男の気遣いだと言えなくも無い。今の時期を逸すれば気付く者も格段に増えるだろう」
「ルルーシュ、」
「コーネリアに見付かる前にカタを付けないといけないからな。……まぁ、ユーフェミアしか見ていない人間が7年前に死んだ弟皇子の顔を覚えているとも思えないが」
「ルルちゃん!」
違和感。そう、ルルーシュの態度も部屋の内装も、こんなに大きな騒音をたてたのにナナリーが来ない事もルルーシュが怒らない事も。

久し振りに入ったルルーシュの私室は一見、何も変わりが無いように見える。ベッドやデスクの位置も変わっていないし、私物が極端に増えても減ってもいない。けれど。
「……ルルーシュ、私があげたアルバムはどうしたの」
いつも定位置に置かれていたアルバム。ミレイが必死で掻き集めて来た『昔』からの写真も綴じてあった分厚いアルバム。エリア11に来てからの写真が殆どだが、ほんの数枚だけ貴重な母子3人の写真も含まれていて。
ルルーシュはそれを大切にしてくれていたのをミレイは知っている。
「そこに気付きますか。」
「まだあるわよ。私がブリタニアからかっぱらって来たチェスボード。アレは何処に仕舞ったの」
ルルーシュは物欲に乏しく物に執着しない人間だったけれど、思い入れの強い物は大事に、大切に使い続けていた。――幸せだった頃の思い出の詰まった、品。
ミレイは自分のあげたそれらがルルーシュの部屋の中にしっかりと存在しているのを目にする度、小さな女の子のように胸の奥がくすぐったくなったものだ。
「それに――…ナナリーは、どこ?」
『大切な物』だけがごっそりと抜け落ちた部屋の中で、ルルーシュが困った顔で笑った。
「論点がずれてませんか」
「はぐらかさないで。咲世子は? なんでこんなに大声出してるのに音に敏感なナナリーが来ないの?」
「ナナリーなら安全な場所に移しました。咲世子さんも一緒に」
「じゃあっ!」
「逃げません」
「――っ、どぉして!」
キッパリとミレイの期待を切り捨てたルルーシュに泣きそうになる。
流れた汗が冷えて、身体中の体温を奪ってゆく。先程まであれほど熱かった身体が嘘のようだ。
「兄上一人なら逃げたでしょうが、こうなってはもう本国に見付かるのも時間の問題でしょう。だから、このまま兄上の庇護下で一度本国へ戻ります。」
ナナリーは、見逃してもらいますけど。
諦念を感じさせない静かで淡々とした口調は、既に何もかも受け入れてしまっている。
人の何倍も頭の切れるルルーシュの事だ。「今の事態」は、とっくに予測済みだったのだろう。
人工の灯りが部屋に置かれた家具の金属に反射してキラリと光る。そうやって弾かれた光がルルーシュの白磁の美貌を照らした。

うつくしい、人。

一目惚れだった。初めて会った時からその稀有な美しさに惹かれ、そうして今もルルーシュを見る度にミレイはその「一目惚れ」を繰り返す。
華やかで誰もが目を奪われるものでありながら、宵闇の静けさをも併せ持つ美貌。

美しいだけのひとでは無い事を知っている。護られるだけを良しとしないひとである事も。それでも、守られてくれていたのだ。ミレイが、ルルーシュを護る事を望んだから。
全部知って、彼は笑ってくれていた。
17歳の『普通』の子供のように。すぐに好き勝手に遊び出す会長に苦労する、副会長の位置で。
――そうやって、今もミレイを落ち着かせる為にわざわざ敬語を使って。『いつも』のミレイ・アッシュフォードに戻す為に。
「……ごめんなさい」
それでもきっとルルーシュは想像だにしなかっただろう。
姉のように、友人のように、手のかかる上役として何時だって笑いながら接していたミレイが本当は一番その身分の差を絶えず意識していたなんて。
抱きしめるどころか手を引っ張るだけでも身体が強張りそうになって、愛称で呼ぶだけでも声が掠れそうになっていたなんて。
「ごめんなさいルルーシュ」
「ミレイ、」
「ウチの所為ね。アッシュフォードがアスプルンド伯爵家に取り入ろうとしたから」
護るどころか、これでは全く逆ではないか。
「…違いますよ。それは関係無い。」
「だって、!」
「普通、遠いエリアにいる部下の見合い相手を気にする皇族は居ませんよ。
――何より、遅かれ早かれ結局コーネリアには見付かる事になったでしょうから」
的確に言葉を発し、けれどすべからく核心を避けて曖昧に濁したルルーシュの意図がミレイには見えない。


「…気付いた時には、手遅れだったんです」


「それは、誰の話?」
悲しみを綴じ込めた笑顔で、紡がれた言の葉はあまりにも孤独で、思わず耳を塞ぎたくなる。ルルーシュにこんな顔をさせる事の出来る人間を、ミレイは2人しか知らない。
けれど確信に辿り着くには最後の一カケラが足りないミレイに、ルルーシュが矛先を変える。

「向こうはアッシュフォード財閥の知識と技術には興味があるらしいので、これからは兄上が取り立ててくれるでしょうから、ルーベンには俺の事は気にせず地位向上に専念して下さいと、伝えて下さい。」
「…教える気は無いのね」
「ミレイ。」
「――…わかったわ。……まだ、何か出来る事はある?」
「必要無いとは思いますが――これを。」
デスクに散らばるファイルの一つを手に取って、ルルーシュはそれをミレイに手渡す。
手に取る時に僅かに角を人差し指でするりと撫でて、相手に見やすいように差し出す一連の流れるような動きは、昨日まで何度も何度も生徒会室で繰り返されてきたものと、全く同じで。それなのに渡されたデータの中身が、ミレイが面倒臭がって溜め込んだ他愛ない学園の書類では無い事が、泣き出しそうに寂しかった。
「なぁに、コレ?」
メタリックブルーの不透明なファイルとデータディスク。
熱を持たない無機物のそれが、冷え切っていると思っていたミレイの身体がそれでも体温を持っていた事を思い出させた。
「『ナナリー・ランペルージ』の生体データです。もしコーネリアからナナリーについて詰問があれば使って下さい」
「…ナナリー・ヴィ・ブリタニアは7年前に死亡。けれどアッシュフォードは傷心の憐れな皇子様を慰める為に妹姫にそっくりな少女を献上した。
イマイチな美談ね。脚本家の才能は無いわよルルちゃん」
「辛辣ですね」
仕方ありませんよ、とルルーシュが苦笑する。
「兄上が上手くフォローしてくれるでしょうが、念の為。」
「ナナリーが知ったら静かに大激怒するわね。1週間は口を聞いてもらえない覚悟はおありかしらオニイサマ」
「それはご遠慮願います。――…でも、俺は何があってもナナリーの存在を知られる訳にはいかないんです」
「…そうね」
ナナリーに何かあれば、ルルーシュはきっと生きる意味も、生きようとする意思も奪われてしまうから。ナナリーを隠す事はルルーシュを護る事だ。ルルーシュの、心の一番奥のやわらかい部分を。
ナナリーが傷付けばルルーシュが害われ、ルルーシュが害われればナナリーは絶望を味わうのだろう。
誰よりも傷付き、けれどだからこそ誰よりも優しく在れた小さな聖女は、己の存在が兄にどれほどの影響を持っているのかきちんと理解している。だからナナリーに関して、ミレイの心配は殆ど無いに等しい。薄情なのでも、情が偏っているのでもなく、同じ一人の人間を愛する女としてのの確信だ。
ナナリーの安全は、ルルーシュとルルーシュを愛する人間と何よりナナリー本人によって護られる。

「信じて、いいのね?」
そのナナリーを護る為の場所を、もう任せてもらえないのは悲しいけれど、力不足なのは事実だ。これから伸し上がって行くしかない。先程ルルーシュが言ったように、アッシュフォードの培ってきた総てを駆使して、今度は第二皇子の下で。
(尻軽と言われても知るもんですか)
力を、込めて顔を上げる。自分の体に残っている熱を意識して、全面に押し出す。『いつも』のミレイに戻る為に。ルルーシュを護る立場の人間に戻る為に。
「シュナイゼル殿下を信じて良いのね。さっきから『兄上』呼びしてるみたいだけど」
コーネリア殿下は「コーネリア」呼びなのに。
指摘すれば、どうやら無意識だったらしいルルーシュが顔を顰める。その仕草があまりに幼くて、ミレイは目の奥に込み上げてきた痛みを霧散させるのに苦心した。
「…覚えてる? 私、ずっと昔にシュナイゼル殿下に一度だけお会いした事があるわ」
「えぇ。いきなり断りもせずに無断進入でした」
「その時に物凄い眼で睨まれたのよ、私。トラウマになりそうな眼で。」
ルルーシュは知らないだろう。あれは精確にミレイだけを標的にしていたのだから。

自分の倍以上は生きている「大人」の高位の皇子に、いきなり魂の芯まで一気に冷えきるような視線を寄越されて、どうしようもなく恐ろしかったのをミレイは覚えている。
ミレイへと向ける視線と、ルルーシュへそそぐ視線の違いがあまりに明らかで、ミレイはその場からルルーシュを連れて逃げ出したくて仕方なかった。
「奪われるって、思ったわ。だから逃げて欲しかった」
「…すみません」
「『仕方ない』んでしょう? ものの見事に掻っ攫われちゃうのね。――ねぇ、ルルーシュ。楽しかった?」
ルルーシュの宝石のような眼が瞬く。
その紫が、ブリタニアの人間にとって至貴の色だと知っているのは、この学園に5人といないだろう。
「この学校の『日常』は楽しかった?」
「――…『小学生の日』はあまりに斬新でしたよ」
「ふふっ、頑張ったもの。オモイデ作り。」
いつ終わりが来るのか分からない、と。何時だって全力で企画していた。
「シュナイゼル殿下に今までの企画の写真とか差し上げたらアッシュフォードは一気に跳躍かしら」
「止めて下さい。殺されますよ」
「止めて欲しかったら、一つだけお願い……聞いてくれる?」
渡されたファイルを抱き締めるように、ミレイは両腕に力を込めた。触れる事を赦されなかった場所に、もう一度触れようとする自分を護るように。
(ごめんなさいルルーシュ。でも私は止めないわ。アンタを護る為にあの子を傷付ける。)

「――なんで、あの子だったの」

ルルーシュは予想していたように、表情を動かさなかった。
ただ静かに、ミレイの向こう、何処か遠くを見るような、遠く、遠い過ぎ去った過去を懐かしむような眼をしていた。

「…手を、引いてくれていたんです。昔。」
だから、俺はそれが当たり前だと思っていたんです。そう言って微笑むルルーシュがあまりに朧げで、声をかける事さえ出来ずにミレイはその場に立ち尽くす。
(ルルーシュ、何がアンタを、)
「もう離れている事は知っていた筈なのに、それを今更になってもう一度突き付けられて馬鹿みたいに動揺しているだけですよ」
再び、何処かで光が弾けた。
細められたルルーシュの濁りの無い双眸の中で乱反射を起こしてキラキラ輝く。凪いだ湖面を、月光が煌かせるように。うつくしく、かなしい光のうなばら。凝縮されて、凝り固まって硝子化した、もはや悲しみとは呼べぬ無定形の絶望。

「俺の手を取る事が無いと知っていたのに」


(そんなに傷付けたの)


微笑んだ貌は、それでも鮮やかだった。








2007.02.21 偽悪な純愛