幼い頃だ。

真っ暗な夜の中を、ひとりきりで歩いた事があった。
或いは夜ではなく、単に目を瞑っていたのか。一騎は既にそのどちらかであったかを覚えてはいない。
ただ、朧げには記憶していて、何を思ってそんな事をしたのかも、辿り着いたその先に何があったのかさえ覚えていないのに、たった2つだけ確かなことがあった。
一面の闇と、孤独だ。
それだけが確かなものとして、記憶の中に鎮座していた。
その2つだけが。

幼子の感性からすれば忌避するであろうに、そのどちらも、一騎は恐ろしいとは思わなかった。

闇も孤独も、一騎にはとっくに慣れ親しんだものだった。
光や人の温かさは一騎にとって何よりも遠いもので、そして似つかわしくないものだった。赦されていないものだ。
もしそういったものが一騎の目の前に差し出されたなら、それこそ一騎は恐ろしさに震えただろう。
フェストゥムと戦い、何度も命を存在を喪う場面に直面しておきながら、いつだってそんなものを最も恐れているのだ。
それらが眼前に在り、そして喪われる事を。
一騎に失望し、嫌悪を顕わに去っていく事に比べれば、独りで暗闇に揺蕩う方が、ずっと何倍もましだった。
優しい人々を傷付けるぐらいなら。

だから一騎は――。


ジリリリリッ!という昔から変わらない電子音で、真壁一騎は目を覚ました。
午前7時。
毎朝目覚まし時計をセットしている時間だ。つまり今は朝で、自分は今まで眠っていたのだ。
そんなどうでも良い様な事を意識的に自覚して、起き上がりもせずに視線を巡らす。カーテンの締められていない外の風景はやけに明るくて、今日は晴れなのかもしれない。
しかしまぁ平日だし洗濯する時間はないかと、ぼんやりと頭上に見える目覚まし時計のフォルムに手を伸ばす。顔から数十センチと離れていない物体でも、既に大まかな形しか分からなくなっているのだ。今の一騎は。
けれど大した感慨も悲しみもなく、一騎は何時ものように身支度を整えると台所へ降りていく。
不意に、外の光と相対する夢の暗闇を思い出して、一騎は歩きながら目を閉じてみた。
どうにも違うな、と感じる。
残光があるという以前に、そもそも瞼を下せば眼球を休ませようと身体が自動的にシフトするのだから、目を開いて暗闇を「見ていた」夢と感覚が違うのは当り前かと納得した。それに夢だし。一騎は一人ごちた。
「…何をしているんだ。」
廊下の、行く先から声をかけられて、驚くより先に珍しいなと思う。
この家のもう一人の住人――というよりも家主で一騎の紛れもない父であるところの史彦がこの時間に起き上がってくる事はあまり、殆ど…ほぼ、ない。
大抵、一騎が朝食を作り終えて「さて次は」と思ったところでのそのそ起き上がってくるのだ。
「あれ、父さんどうかしたのか?」
「いや…」
何でもない。
以上、会話終了。
父子仲が多少改善されたとはいえ、お喋りでもない不器用な男2人はこんなものだ。
史彦はのそのそと来た道を戻っていく。
この先には一騎の部屋しかないし、洗面場もトイレも別方向だ。「なんだ?」と一騎は首を傾げたが、まぁいいかと歩みを進めた。まずは何より朝御飯だ。

白米に大根の味噌汁、余った葉を浅漬けにしておいたものと、朝食用に一回り小さくしておいた魚を焼いたもの。ついでに昨日の夜に出たくず野菜と刻みベーコンを加えた卵焼き。
こんなもんだよなと軽く頷いて席に着く。父は既に食卓に腰を下しており、こうまで堂々とひたすら黙して食事が出されるのを待っているだけなのはどうだろうかと思う。しかし、だからといって手を出されると色々と気苦労が増えるだけなので。やはり何もしない方が助かるのだが。
「いただきます」
手を合わせて汁物に口を付ける。 箸と口を濡らせてから、それでも向かい側に何の動きもない事に再び首を傾げた。
「父さん?」
特に何の変哲もない何時も通りの朝食だ。まさかいきなり洋食が食べたいなどと言い出すのではあるまいか。
一騎が嫌そうに眉を顰めていると、漸く史彦が口を開いた。
「…お前は、」
「うん」
「どこか具合でも悪いのか。」
「別に?」
至って『健康』だ。通常――同化現象の促進され続けた身体においての――通りの状態という意味で。
何を今更と軽く応じた一騎に、けれど史彦は納得した様子を見せない。
「…目はどうした。」
「へ?」

はちり、と、一騎は目を開けた。

途端、白と黒と灰色――モノクロの中で輪郭のぼやけた父が見える。
そこで漸く、一騎は自分が部屋を出てから今までずっと、目を瞑っていた事を自覚した。
「あれ?」
「『あれ』じゃない。」
目が痛いのか。
問いかけに首を振る。
「別に」
いつも通り見えない、とはさすがに口にはしなかった。わざわざ大人達の、子供達に対する悔恨の意識を朝から刺激するのは憚られた。
「今日は遠見先生のところに行く日だろう。」
「そうだけど」
「ちゃんと行くんだぞ。」
いつにもない念の押しように、父こそ今日は一体どうしたんだと思いつつ「分かってるよ」と応じる。
と、そこまで言う必要は無いとも感じていたが正直に「あ、でも」と付け加えた。
「何だ。店は定休日だろう」
やたら重く言うのに、何だってこんなに過剰反応なんだろうと一騎は内心で頭を抱えた。
「今日は確か挑戦状が来てたから少し遅くなるかもって、遠見に伝えておこうかと思って」
「挑戦状?」
あ、コレは大人に言うべきではなかったかと、口を滑らせた自分の迂闊さを一騎は恨んだ。
「えっと、クラスの奴らとかが昔の剣司みたいに時々果たし合い?の挑戦を申し込んでくるから、その相手を…」
「お前はまだそんな事をしているのか」
「まぁ…」
「平気なのか。」
一騎は肩を竦めた。
「一発だって殴られた事ないよ。」
軽く言えば、史彦はそれこそ『目に見えて』安心したようだった。

(あれ?)

直感だった。
一騎が朝目覚めてからの全ての言動と、父の全ての挙動を俯瞰して見つめ続け続けている自分がいて、そいつが急に閃いたような、剥離した唐突さだった。
「父さん、」
もしかしたら、父は中々目覚ましを止めない自分を『止められないような状態』にあるのだと、物凄く心配して、それで急いで一騎の部屋に向かっていたのではないか。そして、ずっと目を閉じたままの一騎を、今すぐ遠見先生のところまで連れていくべきか悩んであれこれ聞こうとしていたんじゃないだろうか。
素直に聞けばいいのになんて不器用さだろうかと、一騎は自分を棚上げして、今ここにはいない友へ感じた感想を再び抱く。
「寝ぼけて止めるの遅れただけだよ」
「ありがとう」も「ごめん」も相応しくなくて、それだけ伝えれば、一拍動きを止めてそれから史彦は味噌汁を手に取った。
一口飲んで、味に満足したのか一度頷く。
「…早く食え。冷めるぞ」
「作ったの俺だって。」

こればかりは憮然と一騎は言った。







2011.01.26 手の鳴る方へおいでなさいと鬼が笑う-1