初めに無くなったのは、色彩だった。
次に輪郭。
尤も、2年前に島に帰還した際は完全に同化現象によって失明していたのだから、この言い方は前提から間違っているのかもしれないが、それは一騎にはどうでもいいことだった。
分かっているのは、そう遠くないうちに、再び一騎の視界は喪われるのだ。全て、完全に。
そして今度こそ戻ることは、ない。
今はまだ、そこに存在している事が分かる。
まだ、『視える』。
でも、それだけだ。
アーカイブにある白黒映画のピントを思い切りぼやけさせたら、今の一騎の視界に近しいのかもしれない。
そんな、あやふやな世界。
――視界の、同化。
ある意味、今の完全に視力の失われていないこの状態こそが、最も『彼ら』の視界に近いのではないだろうか。
そんな事を、時々一騎は考える。
人に表情は無く、声が無ければ誰であるかの判別もつかない。
笑っているのか、怒っているのか。その人特有の表情も癖も、何一つ感じ取れない。
真矢の澄んだ眼差しも、カノンの燃えるような激しい髪の美しさも、剣司の安堵させる笑い方も、咲良の挑むような勝気な表情も、何もかもが一緒くたで、世界と同化していて見分けがつかない。
生きているものも、そうでないものも、――死んでいるものでさえ、何の違いもない世界。
そんな風に世界が見えていたら嫌だな、と、一騎はだから目を閉じる。
一騎の守りたい人達、守れなかった人達、彼の帰ってくる場所、…彼の存在を、今の視界の味気無さで上書きしてしまう事が無いように。
そうして、ちゃんと頭の中で鮮明に思い描ける事に安堵するのだ。
だから、なぜ目を閉じていると聴かれても、元来口下手な一騎は余計に返事に窮してしまう。
正直に言うには流石に情けないし、視力が完全に失せた時の予行だと言ってしまうには必死で同化現象の治療に取り組んでくれている遠見先生にも申し訳ない。
だから真矢が「危ないよ一騎君」と諫めてくれた時も、カノンが「もし一発でも食らったら私が鍛え直してやる!」と怒りつつ心配してくれた時も、最近ではすっかり相手の我儘も丸ごと受け入れる器の大きさが知れてきた剣司が「ほどほどにしとけよー」と呆れて見せた時も、そして今日果たし合いの相手であるところの隣のクラスの男子生徒が「なんで目ぇ閉じてんだよ!」と声を荒げた時にも、一騎は黙して肩を竦めて見せた。
そうすれば、勝手に相手は解釈してくれる。
今日の相手は馬鹿にされたと感じたようで、ただでさえ荒い動作が更に乱雑になっていった。
挑発のつもりじゃなかったんだけどな、と思いながら、相手がこういった事で身体を動かす事態にあまり長けていないのだと知る。
今はリハビリ中だが、道場娘で知られるかつての咲良や彼女に鍛えられている――というよりもは新技の実験台だったが――剣司の方が、余程しなやかな動きをする。
最も、その分身体運びも読み易いから、彼らの方が視界の閉ざされた状態では相手をし易い。
仕方ないので、一騎は動かず相手の攻撃を待つ。
空気の流れを読むだとか、気配を感じるだとかの漫画の登場人物がやる離れ業は当り前だが出来ないので、何の考えも無く突き出された相手の拳が、自分の頬に触れたその瞬間に動いて身体を逸らす。
一騎には見える由もなかったが、確かに肌に触れた触感があるのに、手応えが無くてたたらを踏んだ挑戦者と、それを見ていたギャラリーが狐に抓まれたような顔をした。
そもそも――どうしてこんな『遊び』をするハメになったかといえば、元々は確か一騎を快く思わない子供の何人かが徒党を組んで憂さ晴らしをしようとしたのが切っ掛けだったのだ。
その時はまだ一騎の視界は今よりはクリアで、そして逆に身体の方は杖を突かなければ歩けない程度には不自由だった。
だからまぁ、一騎の方としては仕方ないから手加減なしの容赦なくちゃんと全力で「畳もう」と思ったのだが、どうやって訊き付けて来たのか、剣司とカノンの生徒会コンビが鬼の形相――これはカノンのみだが――でやって来て、そして顔を突き合わせて相手側と何やら話し合った挙句に、何故か――当事者の一騎の了承なしに理解出来ない論法で以って、一対一で一人ずつ果たし合いをする事で落ち着いてしまった。
よく分からない。
一日一人。最終的には十人近く居たように記憶している彼らをしっかり畳み終えて――何故かカノンがやたらと嬉しそうだった――ひと息ついた頃には「エースパイロットをちょっとへこませてやろう」という当初よりも随分とお軽い目的へと様変わりし、周囲に浸透していった。
――ちなみに一騎の預かり知らぬ事ではあるが、「真壁一騎に勝って、真壁の事が好きそうなあの子に告白しよう」という『当初』より変わらぬ本来の目的が男子生徒達の間で存在しているのだが、一騎は露ほども気付いていない。
おかげで、時折一騎は放課後にむさ苦しい内容で呼び出される。
「エースパイロット?」と首を傾げた一騎を、その時の渾身の力で殴り付けたのは珍しく登校していた咲良だ。
自分はエースパイロットらしい。
果たして、平和になりファフナーに乗る必然のない今の島で――否、そもそも、もうファフナーに乗る事さえ出来ないかもしれないパイロットに、そんな名前が付いたところで価値があるとは思えなかったが。
こんな自分に。
名前負けだよなぁ、とそこで一騎は左へステップを踏む。
半瞬後に、一騎がいたそこへ相手が腕を豪快に空振る気配があった。数秒も対峙すれば、自ずとパターンが視えてくる。
昔はそんな事思い付きもしなかったが、今は時折そういう――戦術のようなものも浮かぶようになった。
彼、のように。
果たしてそれがファフナーに乗った時のメモリージングやクロッシングの影響なのかは一騎に知る術は無いが、まぁ別にそれらに頼らずとも一騎の身体能力ならば相手の身体が触れてから反射神経を駆使しても十二分に間に合う。
身体の命じるままに動けば、閉じた視界の中で、相手の息遣いとは別に、時折パチパチと手を叩く音や一騎の名前交じりの会話が漏れ聞こえる。
(かずき)
呼ぶ声が聞こえる。
手を叩く音と。
日中の、明るい中で目を閉じた程度の暗さとは違う、もっと光の届かない、深い、闇のただ中で。
必死に目を凝らしても何も見えない覆われた世界に、それこそが一騎に似合いの世界だと。
子供の一騎が、一人きりでそこにいた。
既視感に、酔いそうになる。
現実の自分と、そこで歩いている幼い自分のどちらが、今の真壁一騎であるか迷ってしまう程に。
幼い一騎が、そこにいる。
何も気負わず、自然体で。
闇を供にして。
一片の光もない、それなのにおどろおどろしい雰囲気の無い漆黒。
それに一騎は「あれ?」と思った。
なぜだろう。
おかしかった。
当り前であるはずのそれが、変だと感じた。
島を出る前は何とも思わなかったのに、今改めて振り返ってみればそれは随分と辻褄の合わない話だ。
闇の中の自分は幼い子供の姿をしている。
――彼、の、目を傷付け卑劣にも逃げ出した時より、もっと幼い、小さな子供。
それが、笑っている。
闇の中で。
闇にくるまれて、それでもはしゃいでいる。
ひとり、で。
明るく。
浮かぶイメージに、一騎は内心で首を傾げた。
鬱屈している自分と、その姿は掛け離れている。
(かずき、)
呼ばれる。
声に、一騎は幼い自分と同じ動作で、それが投げられた方向を向いた。
否、一騎は幼い子供なのだから、呼ばれたのは自分でしかなく、だから一騎はその声の方へ足を向けようとして――
「一騎君っ!」
悲鳴染みた鋭さで放たれた声に、はっとして一騎は現実に意識を向けた。
背に当たるささくれてごわつく堅い感触に、木を背後に追い込まれた事を知覚した。
勝ち誇ったように相手がにやつき、大きく腕を振りかぶるのを察して、一騎は即座に反転し、挑戦者に背を向けて木に足を掛ける。
重力に圧し負けて身体が墜ちるより速く、子供の頃より伸びた脚を惜しげもなく駆使して、大股に木の幹を駆け上がる。ほぼ垂直に伸びたそれを。
一歩、二歩、四歩目の、一騎と相手の身長は優に超したところで強く踏み込み、反動で後ろ向きに跳躍する。
地上の束縛も無視して、身体を投げ出し天地を逆さまに。人一人を間に挟んだ宙返りだ。
わっと周囲で歓声が上がるが、当事者には聞こえない。
そのまま一騎は身体を空中でひねって相手の背後に着地し、眼前で曲芸染みた離れ業を成され固まった男子生徒が解凍される前に彼の頭をごく軽く手刀で叩く。
ぽん、と間抜けな音がした。
この果たし合いは相手側に関しては「一発決められたらそこで終わり」が暗黙のルールだ。
「一騎の勝ちだ!!」
だからもう終わりだ!!という副音声が含まれている宣制をカノンが発し、ギャラリーが囃しだす。
その声に押し潰されるように敗者の生徒がへたり込むが、流石にここで手を貸すのは惨めにさせるだけだと一騎でも分かる。
毎度の事ながら、はしゃぐ周囲に対して身の置き場が無いな、と感じてしまうのは一騎の悪い癖だが、もうどうしようもない。
ノリのいい剣司は「手でも振ってやれよ」と言うのだが、そんな事が出来るなら端から無愛想だのといった評価を受けていない。
「一騎君、」
だから一騎は――
「今日お母さんのところ行く日でしょ。早く帰ろ」
申し訳なく思いつつも、察しの良い真矢のあまやかな声に、いつだって甘えてしまうのだ。
2011.02.04 手の鳴る方へおいでなさいと鬼が笑う-2