しあわせにおなり いとしいこ。
しあわせに、しあわせに。
ずっと、ずっと遠く離れた場所で、見守っているよ。
誰かに名を呼ばれた気がして、子供は背後を振り返った。
傍らにいた男達の一人がそれを見咎めて、「どうかなさいましたか」と聞いてくるのに、子供は黙って首を振った。呼ばれた、というのは只の願望だと子供は理解していた。
男達も詮索するでもなく、子供に対して殊更丁寧に、それこそ身上の者に対するかのように接していく。
毛糸で編まれたイヤーウォーマー付きの帽子を目深に被り、わざと大きめに作られたトレーナーを着ている子供の性別は分からない。一般の住宅街や公園に行けば、ありふれた子供の一人だ。
ただ、黒いスーツを着こなした体躯の良い数人の男達をその小さな子供が従えている光景は、見る者があれば、一瞬で脳裏に焼け付きそうなものではあった。
それでも子供は堂々としている。男達の優秀さは、そんな事を許すはずも無いと知っているからだ。
「死体の用意は」
「殿下お二人方の背格好に似たものを引き取っております。」
「そうか。」
全ては計画通りに。子供の母親が殺された時から予定されていた多くの「死」は、何の問題も無く遂行されるだろう。それこそ、子供自身の分まで。
「…お前達には、済まない事をしたと思っている。」
言葉に、男達は目を見張った。子供の演技で無い、しおらしい様子など、初めて見たからだ。
「勿体無きお言葉です。」
「どうぞ我等の事など、お気になさらないで下さい。我等は少しでも御身のお役に立てればそれで良いのです。」
子供が真っ直ぐに男達を見上げる。大きな紫色の瞳は、この国では至上とされているものだ。
「お前達は私を王にしたかったのだろう。」
「はい。」
「ですが、貴方は既に我等の王です。その方に仕える事こそが、我等一同にとって至上の喜びです。」
どんな光りも吸い尽くす漆黒の髪に、純銀と黄金で作られた王冠が被せられる様は、如何程にうつくしかったろう。子供の高貴なる双眸と同じ絢の宝石をちりばめたそれは、どれほど男達の主に似合ったろう。ブリタニア中の人間に傅かれ、玉座につく子供の成長した姿。
それは確かに男達の夢であったが、今の男達にはその夢に未練は無い。
それとは全く別の夢のカタチが、目の前にあった。
「…貴方はお変わりになられました。」
想像だに、しなかった夢。
起こり得ないと思う事さえ、出来なかった夢。
「我等がそれを喜ぶ事すれ、如何して悲しむ事がありましょうか。」
もし、子供がこの国を発った時の侭であったならば、男達はその存在の喪失を惜しんだだろう。嘆いただろう。引き留める事が出来なくても、未練は残っただろう。
けれど。
一つの季節を経て、子供は変わった。
只ひたすらに自己を顧みず、家族を護ろうとしていた子供は、今では『生きよう』としていた。自分も、しあわせになろうとしていた。
それが男達には何より嬉しい。何よりも得がたい現実だ。
「…アッシュフォードの大老も、エリア11に渡ると聞き及んでおります。何かあればご連絡下さい。
たとえ御身が野に下ろうとも、何があろうと我等の忠義に変わる所は御座いません。必ずや、お力になりましょう。」
「判った。…しかし」
「はっ。」
「日本はもう名を受けたのか」
男の言葉の一部に、子供は言い難そうに問いかけた。
「はい。『エリア11』と。これより『イレヴン』と呼ばれる事となります。」
「イレヴン…」
「栄えある11番目に御座います。」
「………」
「如何なさいましたか?」
「いや、友好の証として名を送っているのは判るが、何と言うか、こう…」
「?」
「あの男のネーミングセンスは酷過ぎるというか、人種の差というか、」
「はぁ」
思わず男達の一人から間抜けな声がでたが、仕方が無い。「あの男」とは、間違い無くこの国の最高権力者の事だろう。
「絶対に日本人から反感を買うぞ。物凄く。」
おまけに総督はクロヴィスか、と子供は年に似合わぬ深いため息をついた。第三皇子のクロヴィスは、意識していなくとも根っからのブリタニア人至上主義だ。皇族・貴族は大抵そうだ。日本人の扱いは目に見えている気がした。
――男達は、だからこそ、ブリタニア人の幼い兄妹にとっては住み易いと安心しているが。
(もしかしたら、思ったよりも早くアッシュフォードの世話になるかもしれないな。)
政治の場に手を出すような事態は望む所ではないが、いざとなったら仕方が無いと諦めた。子供は東方の島国を、自分の『特別』が愛する場所を、同じ様に愛していた。滞在したのはたった一夏だけでも、この国より余程。
もうそろそろ時間だな、と言って子供は車に乗りこむ。『自分』を、殺す為に。
「殿下。」
「もう、『殿下』ではないさ。」
子供は苦笑した様だった。けれど其処には微塵の暗さも無い。むしろ清々しささえ感じられた。
「どうぞ、貴方の小さな『騎士』に宜しくお伝え下さい。」
公の場でなら不敬にあたりそうな言葉をこぼせば、子供はきょとんとした。
その無防備さに、男達は胸が温かくなるのを感じた。そして子供の『特別』への深い感謝を。
どうか、早く見付けてくれれば良い、と祈るように。男達の主は完璧に情報を操るだろうから、見付け出すのは至難の技だが、それでも出来る限りはやく。諦めずに。はやく辿り着いて、ずっと傍に居てくれれば良い、と男達は思った。
このこどもが、しあわせになれるように。
子供は嬉しそうに、わらった。
ブリタニアの空港を、三人の親子が歩いて行く。
父親が一人に、子供が二人。妹は疲れてしまったのか、目を閉じたまま姉――兄かもしれないが、性別は分からない。――の背中におぶさっている。
余程妹が大切なのだろう。小さな子供が、父親の手を借りずに、妹を一生懸命に運んでいく姿は微笑ましいものだった。
微笑ましく、けれどありふれた光景の一つに過ぎない。そうして、人々は各々の目的へと歩き去っていった。
ブリタニアの皇子が死亡する、僅か半日前の事である。
2006.11.27 Interludium――幕間――end