あの歳の離れた義弟を思い出す時、浮かぶ感情はいつだって後悔を孕んだ僅かな罪悪感。
そして決して拭い去る事の出来ない確かな恐怖。



私は自分の母親が嫌いだった。

ブリタニアの皇族の直系は父親――皇帝であるなら当たり前だが――の愛情を受ける事は無い。兄弟も、いつ牙を剥くか分からない「政敵」にしか過ぎない。
だから母親だけが、子供に肉親の情をそそぐ。
けれど、皇子を産みたくて仕方の無かった母は、女として生まれてきた私に心底失望していた。
そんな親から愛情を受け取れる筈もなく、私を慈しみ、育て上げてくれたのは母の親族にあたるダールトン家の者達だった。 ダールトンは数多くの将校を輩出してきた軍閥一族の一つであったから、私が影響を受けずには居られなかったのは、仕方の無い話だろう。――尤も、軍人として生きる事を選んだ根底には、ひたすらに男子である事を望んだ母への当て付けと、周りの皇子達と変わらぬ成果を上げる事で、母親の愛情を希求する心があったのは、確かだ。

…結局は、何も変わりはしなかったが。

私が11歳の時、母はまた子供を産んだ。
女だった。
その1年前には、庶民の出であるマリアンヌが皇子を出産していたから、胎の子が女である事を知った時の母は、発狂せんがばかりだった。生まれた子供が、まるで悪魔か汚らしい存在であるかのように忌み嫌い、遠ざけ、無視し続けた。
――今にして考えれば、母も苦しめられていたのだろう。強い後ろ盾があるという事は、それだけ掛かる期待や、圧力が大きいという事だ。利用価値の無い皇妃は、親族にさえ見捨てられる。

それでも、ユーフェミアを「悪魔の子」と罵った母を、私は生涯許すつもりは無い。

ユーフェミア・リ・ブリタニア。
私のたった一人の妹。
たった一人の家族。
あの子の名前は、私が名付けた。
何日も何日も、優しい、美しい響きの名前を考えて、少しでも幸せに生きられるようにと祈りを込めて。
そうして、父からも母からも愛される事の無い魂を、私だけは愛し、護りぬき、育て上げる事を幼いながらも心に誓った。
私にとって、最も幸いだったのは、やはりユーフェミアが女であった事だろう。
認めたくは無いが、母と私は本当はひどく似通っている。母の思惑通り――私の内心の望みとは逆に――ユーフェミアが皇子として生を受けたなら、母は手中の玉の様に溺愛しただろうし、私は自分が決して受けることの無いものを得る弟を憎んだだろうから。
そして私は一生涯、肉親の愛情を受ける事が無かったのだ。

そう、ユーフェミアは私を愛してくれた。
私が愛情をそそげば、ユーフェミアはそれと同じだけ、時にそれ以上の愛情を返してくれた。――『母』として、妹として。
私がユーフェミアにとって『母』であり姉であったのと同様に、私にとってユーフェミアは妹であり、確かに『母』であった。私を慈しみ、時に叱り、守ってくれる、私が護るべき存在。
本当に、真っ直ぐに成長してくれた。優しく、高潔で、この薄汚れた世界の中でも、真実美しいものを見つめる事の出来る子。私が選ばなかった――選べなかった、女としての人生を歩む、私の光。

だから――だから、本当は恐ろしくて仕方ない。
ユーフェミア。私のたった一人の妹。たった一人の家族。

ルルーシュにとってのナナリーのように。

私にとって、ユーフェミアがナナリーのように目が見えず、立つ事さえ出来なくなるのは、己の死よりも苦痛を及ぼす。――それを、ルルーシュは知っている。



私が『裏切った』義弟は、それを、正確に理解していたのだ。



ルルーシュはとても賢い子供だったと、記憶している。
大抵の本を一度読んだだけで記憶できたし、なおかつ理解しその知識を発展・活用する事さえ出来た。
頭の回転が速く、口も達者。
チェスをやらせては右に出る者はなく、自分の倍以上は歳を取っている大人に対してさえ負ける所を見たことが無かった。そうして大人達は負けるとルルーシュの才に驚愕し、認めるしかないにもかかわらず「子供の方が思いがけない方法を思いつくものですな」と、負け惜しみにもならない捨て台詞を吐くのだ。
私は直接ルルーシュの相手をした事は無かったが、義弟のクロヴィスからその腕前はよく聞かされていた。
当時、クロヴィスはルルーシュ――というかマリアンヌ母子を気に入っていたらしく、時折遊び相手になってやっているのだと言っていた。……尤も、クロヴィスとルルーシュの力量の差を考えれば、果たしてどちらが『遊んでもらって』いたのかは、分かったものではないが。
(クロヴィスは芸術面ではともかく、皇子としての出来は良くなかったので、エリア11の総督として成功を納めている、と知らせを受けた時には、ひどく驚いたものだ。誰か優秀なブレインを手に入れたかと調べてみたが、本当にクロヴィスがやっているらしい。パーティー三昧で遊び呆けているかと思ったが、人間、変われば変わるものなのかもしれない。)

逆にあまり運動は得意ではなかった様だが、父――偉大なるブリタニア皇帝――は何を思ったかルルーシュに対して政治・軍事の会議への同席までをも許した。
殆どの人間はそれを、久方ぶりに生まれた皇子・しかもマリアンヌ皇妃の初めての子供に対する親の愛情ゆえ、と曲解したが、ルルーシュの才に真実気付いた者達には、全く別の皇帝の意図が理解できた。

私はその頃から宮廷の女達の煌びやかで、けれど顔の皮を一枚剥がせば酷く醜悪な生活に嫌気が差していて、自分は軍人になって父とこの国を支えて行くのだ、という強い自負を持っていたから、幼くまだ会議で大人達が何を話し合っているのか判らないルルーシュが、羨ましくて仕方が無かった。
判らないに違いない、と思っていたのだ。当時の私は。
だからこそルルーシュなどよりも、私の方がずっと同席するに相応しいと思っていた。同じ様に幼なかった私にとって、それはもはや確信だった。
母の親族にあたる将軍に頼み込み、嫌っていた母の権力も使い、ルルーシュを引き合いに出してまで私が軍事会議に――一度だけという制約はあったが――出席したのは、だから当然の成り行きだったのだろう。
…その時の事を思い出すと、今でも自分の行動とそれを許した将軍に対して怒りが沸く。何処の誰に喋るとも判らぬ子供に機密だらけの会議への同席を許すなど。

――そしてそれだけルルーシュという存在が特別だったのだという事なのだ。

会議は長く、難解で、退屈だった。
幼い私には目の前で何を話されているのかさえ理解できず、判るのはただ自分が酷く場違いだという事と会議が行き詰まっているという事だけだった。
そうして、ちらりと、たった一人その部屋で私と同じ存在に意識を、向けれ、ば。

目を、見張った。

一歳違いのユーフェミアと同じ位の小さな子供(幼年の子供は総じて男児よりも女児の方が発育が良いものだ。いやそれにしても、あれは本当に小さかった。頭の出来に体が付いていかなかったのか、体を動かそうとしなかったせいか)は、まっすぐ、紫電の瞳を前へ向けて。まるでその部屋で起こっている総ての事象を理解しているかの様に。超然と。

私は唐突に恥ずかしくなった。
年下で、自ら望んだ訳でもないルルーシュと、年上で自ら望んだ自分との余りの落差に。
空気は重く、澱んでいて。早くも自身の行動を後悔しつつあった。
惨めだった。
息を付けたのは会議を2つに分ける休憩の時間だけで、もはや帰りたいとさえ思っていた。

――声を掛けたのはルルーシュの方だった。
『姉上』
未だ性のはっきりしない、幼い声だった。義妹のものにさえ、聞こえたかもしれない。 会議の、休憩時間での事だった。 『ここから、駒を動かして行くにはどうしたら良いと思いますか?』
柔らかで小さな手に、不釣合いな黒いチェスの駒。示された盤は、あと数手で黒がチェックされるところだった。
『幾らなんでも、もう駄目だろう。初めからやり直すのなら兎も角、これでは……』
『そうですね、「初めから」やり直せば良い。』
期待通りの返答をもらった様に、ルルーシュは笑った。話で聞いていたよりも、ずっと素直そうな子供に見えた。
…今思えば、ルルーシュはあそこからでも勝つ事が出来ただろうが。
『なら、これは?この状態で、オープンスペースを得るには?』
次に聞かれたのは俗に言う、「にらみ合い」状態。お互いにポーンが邪魔をして、縦や横、斜めの列を使う事が出来ない。
『え……相手のポーン、を』
『そう、相手のポーンをこちらに動かす。そうすれば、白は有利な攻め手を得た様に思えて、ポーンを無視して攻撃してくる。――でも2手先では、』
しろい手が、軽やかに駒を動かす。私が、そしておそらく誰もが全く気付かなかった手を。
僅か、数手。白は、もはや死んだも同然だった。
駒の動きに見入った私に、ルルーシュは出来の良い『生徒』に対してにっこりと笑った。
『動けないなら、相手を動かせば良い。そちらの方が、ずっと簡単なんですよ姉上。』
そしてこの2つの盤面は、そのまま、会議の答えだった。










2006.11.23