いくつもの約束をする。
他愛ない、忘れられてしまうかもしれない些細な約束事。
出会った沢山の人々と、僕と、君を繋ぐ、淡いおもいで。
か細い糸のような。
ふとした瞬間に切れて、未来のいつかに残った糸を紡ぐような。
実際、忘れられたって構わないのだ。
ただ、君がここにいた事を証明する手立てを遺しておきたかった。
それだけだから。
だから。
いくつもの。
やくそく、を。
宇宙人が、本当は宇宙人でない事を吹雪は知っている。誰にも、アツヤにさえ教えていないの吹雪だけの秘密だ。
彼らは、エイリアンではなく幽霊なのだ。
瞳子監督には内緒だが、一度彼女が大切に見ていた写真をこっそり拝借して、気付かれないうちに元に戻した事があった。
あれは悪戯好きの木暮の仕業だったろうか。
すぐに戻してしまったから、写真自体を見た人数はとても少ない。
何の変哲もない家族写真だった。
その時は。
今よりずっと幼い瞳子と年上の少年が写った、2人だけの家族写真。写真の裏には『兄、ヒロトと』と書かれていたそれ。
「あ、」と声を漏らしたのはキャプテンで、続いた言葉に「ひぃっ!」と悲鳴を上げたのは体の大きさに反比例した怖がりで小心者の壁山だ。
「こいつ、この間会ったぞ」
「この間?」
「あぁ、夜に会ったんだ。いつの間にかいなくなっちゃってたんだけど」
「消えたんでヤンスか?!」
「寝惚けてたんじゃないのか」
冷静な指摘は、いつだって異彩を放つゴーグルとマント付きのゲームメーカーだ。
「人違いだろう」
「間違いないって!姿形そのままだったんだって!!」
「…そのまま?」
周囲が小さくどよめいて、その理由を理解していない円堂だけが首を傾げた。
「ゆ、幽霊ッス!」
「ドッペルゲンガー?!」
ひぃーっと叫び出した一年コンビに、そのまま周囲は怪談話に移っていく。きっと、ほとんどのメンバーが忘れてしまったであろう、ありふれたキャラバンの夜の一幕。
なるほど、この青白さは死人に違いないと吹雪は内心納得した。
目の前には、写真から抜け出てきたように『そのまま』の姿の「ヒロト」がいた。あの写真を撮った日から瞳子がかけた年月全てを無視して、誰が見ても『兄』でなく『弟』にしか見えない少年が。
何故か今、吹雪の病室にいる。
「謝ろうと思って」
傷付けるつもりは無かったんだと苦笑する少年は、全国の中学校を破壊してまわっている組織の人物には似つかわしくない。それとも宇宙人にも色々あるのだろうか。
状況にそぐわない考え事にぼんやりと吹雪は頭を巡らせた。
「…驚かないんだね」
居心地悪そうに、まるきり人と変わらない宇宙人が言う。
試合の時に上げていた赤い指通りの良さそうなサラサラの髪を下ろして、奇抜なデザインのユニフォームを脱いでどう見ても既製品のオレンジのダウンジャケットを身にまとった姿は、ありふれた同年代の少年だ。或いはこれは単なる擬態なのだろうか。二度目ましての吹雪にはよくわからない。
ただその中で異様なほど青白い肌と茫洋とした眼差しだけが際立っている。
「責めてほしいの?」
きっと罵倒されるかねめつけられると予想していただろうに。
ちょっと意地悪かなと思いつつも、これぐらいの意趣返しは許されてしかるべきだと窺えば、光の無い、けれど表情は消えない雄弁な瞳が、ぐっと黙り込む。
素直すぎる反応に、今度は吹雪が苦笑する番だった。
元々、吹雪がこうして入院する羽目になったのは吹雪自身の精神的不安定さが原因だし、害意を持たない相手に対しては――それが敵対してる人物でさえ、吹雪はあまり強く出る事が出来ない。
弟のアツヤならいざ知らず、士郎はそういう性分なのだ。仕方がない。
おまけに、今の「ヒロト」の表情を見れば、そんな気も起きなくなる。
そっくりだったのだ。
弟の、おいてけぼりにされて泣き出しそうになった時と。
「瞳子監督は君のお姉さんなのかな」
訊いてみたのはそうであるのが正しい事のように思えたからだ。
兄であるより、弟である方がきっと彼には相応しい。
幽霊は、なんでそんな事を聞かれたのか判らないようだった。
「――さぁ、どうだろうね」
どちらでも取れる返事に、それなら監督も宇宙人という事になるのかなと思い付いたが、それは吹雪にとってはどうでもいい事だった。
彼女は吹雪の『事情』を知り、その危うさに気付きながらもプレイさせ続けてくれた。
そして、その均衡が崩れた今も見捨てずに使っていってくれると云う。
吹雪にはそれで充分だ。
彼女には感謝している。何者であったとしても、それは変わらない。
「監督のお兄さんの幽霊っていうより、弟みたいだね」
笑いかけると、びっくりして目を丸くする様は人間みたいだった。
「…幽霊か、」
宇宙人はその喩えが随分気に入ったらしい。相変わらず光の無い目を細めて小さく笑った。
「うん、俺は幽霊になりたかったんだ」
一人ごちる。
夕闇の病室で、こんな会話をしている自分達は傍から見れば頭の可笑しな2人だ。それとも、もしかしたらごく普通の、仲の良い同年代の友人にでも見えるだろうか。
それは中々楽しい空想だった。
「君は幽霊じゃないんだね」
「亡霊、であることは間違いないよ」
違いが吹雪には理解出来ないが、わざわざ言い直すぐらいなのだから違うのだろう。
吹雪はがっかりしてため息を吐いた。
「残念。
…僕は幽霊に会ったら訊いてみたい事があったんだ。」
「…弟さんの事?」
宇宙人もとい亡霊にまで悼ましそうに見つめられて、吹雪は笑ってしまった。
眠っている間に瞳子が吹雪の『事情』を全て話したようで、目覚めてから見舞いに来てくれたキャラバンの人々の視線はがらりと変わっていた。
こちらが申し訳なくなるほどに。
どうして目の前の彼まで知っているのだろう。
敵の内情は調べ上げているのか、それとも幽霊ネットワーク的なものがあって、それで知ったのだろうか。
ありえない。
吹雪は一笑した。
それなら偽りを看過していなければ。
亡霊を自称する彼の、死を悼ましいものと思えるその眼は、生きている人間のものだ。
「弟に、会いたいと思う?」
それなのに青ざめた肌と冥い眼はまるで死人のようなのだから、吹雪に負けず劣らず彼も随分と不安定なのだろう。
自分を棚上げして、そんな事を思う。
「どういう、意味で、かな」
嫌だな、と吹雪は素直に感じた。
嫌な、雰囲気だ。
よくない事を、きっと言われる。
電気を付けていない病室は次第に明るさを喪っていく。
大きな窓から入ってきた陽光も、彼の訪れとともに夕闇に沈んでいって今はもう僅かな光だけがブラインドの隙間から無機質な白い部屋を照らしている。
なのに光源そのもののように、白い肌は不気味に光って周囲から浮き出ていた。
彼からしてみれば、或いは吹雪も同じように見えているのかもしれない。
「君が、もし――」
亡霊は言い淀んで、逡巡したのがはっきりと見えた。
続く言葉を、吹雪はきっと知っている。
知っている事を、彼は知らない。
(言わないで)
気付かれない程度に大きく息を吸って、腹の底に留める。吸った酸素が血流に乗って脳に行き届くまでには間に合わない。
祈るような心地でじっと血色の悪い唇が動くのを見つめる。
まだ終わりにはしたくなかった。
出てきたのは知らない名前だ。
「研崎が――いや、俺には関係ない、か」
察知して身を固くした吹雪をどう思ったのか、言いかけて、けれど結局は口を噤んだ。
ありがたい。
今の吹雪ではアツヤに会話の全てを遮断する事も、アツヤを完全に抑え付けておくことも出来ないだろうから。
アツヤをこれ以上揺さぶる要因は避けたかった。
まだ。
溜めた呼気をひと息に吐き出す。
無言のシーソーゲームは差し当たって吹雪の不戦勝で納めてくれるらしい。
「また今度にするよ」
吹雪の過剰反応に気を悪くした素振りもなく、踵を返す。
「こんな事は俺の役目じゃないし、今日は…謝りに来ただけだから」
「気にしなくていいのに」
言い訳染みた科白さえ感心するぐらい律儀で優しい。
黄泉の国への道先案内人にしてはやや役不足だ。些か人間味に溢れ過ぎている。
甘いと自覚してるだろうに。
吹雪にはそれが好ましい。アツヤが人の強さを好むように、人の弱さをこそ吹雪は愛してる。
「ねぇ、」
去ろうとする背中に声をかけたのは、あまりにも人間染みた亡霊だったからだろうか。
「もし君が誰かの亡霊でいたがっているなら、僕らはきっと友達になれたと思うよ」
思いがけない言葉を投げかけられて、彼はきょとんとしたようだった。
「でも、もし、君が違う『誰かさん』じゃなくて、君自身の名前で生きる事を選べたら、」
「――きみは…」
「そうしたら、今度はちゃんと自己紹介から始めようよ」
「…なにを知っている」
険しくなった声に、あぁ警戒させちゃったと吹雪は少し残念に思った。
「僕は何も知らないよ」
知ろうとも思わない。
「宇宙人には興味がないんだ」
「変わってるね。…なのに戦うんだ?」
「求めてくれるなら、サッカーをするよ。でも、それが君達が相手でなくても僕は構わない。
勿論、君達のやってる事は許せないと思うし皆を守りたいとも思うけど。」
彼からしてみれば、吹雪こそエイリアンに見えただろう。
事件の前後関係や全体像を知らなくても、憶測や推測で個人の核心は突けるものだ。
だから吹雪は笑って見せる。
傷だらけでぼろぼろで、精神的にもガタガタのお荷物でも。
ぜんぶ笑顔の裏に隠して閉じ込める。
「宇宙人には興味ないけど、亡霊とは仲良く出来ると思う。
僕は君のなりたかった幽霊の名前と、亡霊の名前は知ってるけど君の名前は知らないから、」
背を向けたまま、顔だけ吹雪に向けて訝しむような視線を送られる。
変わらず一瞥しただけでは死んだように凝った瞳に、ちろりと輝きが走った。
亡霊は厭わしげに目を細める。単に眩しかっただけかもしれないが。
残照だ。
ブラインドから漏れる明かりはどんどん細くなるのに、光は、どんなに暗い場所でも届いてくれる。
夜になれば月と星が世界を照らすように、朝になれば日がまた昇るように。
すぐそこの、手を伸ばせば掴める位置に光は存在する。
生きている人間の、すぐそばに。
「いつか自己紹介をしなきゃ。」
きみが、いきようとするなら。
とっときの秘密を打ち明けるように、声を潜める。
彼はいつか気付いてくれるだろうか。
自分が何と話していたのか。
「君達は僕の名前も知らない。」
吹雪は、完璧に異星人だ。
「なぞかけだよ」
幽霊ネットワークで検索すれば、すぐに分かる程度の。
2011.02.12 ゴースティ・コースト・サンシャイン