「…静かなものだな」
己以外の人間の音の一切が介入する事の無い、ある種の人工的に作られたもの在り、同時に自然のものでも在る静寂を壊さぬよう、ゼロはこまやかな息を吐き出した。
小さく、ちいさく。最後まで、気を抜かずに。
吐いた呼気が口内と大気の温度差に因って白く曇り、肌寒い夜気に紛れて消えて往くを見届けて、ゼロは背後の残骸へその身を凭れ掛けた。
白い、ナイトメアの残骸へ。
紅蓮弐式の輻射波動に因って左半身が丸々ひしゃげ融解した上に、その核と成っていたルミナスも念入りに壊されたが為に、最早再生は不可能と成った、鉄の塊。
ゼロはこの白い騎士の名を知らぬし、破壊した張本人であるカレンも知らない。黒の騎士団の誰も知りはしない。――これから耳にする事も有り得ぬ未来である。
が、その脅威的な性能は万人の知る処であった。幾度と無くゼロを阻んできた忌むべき機体。
それを漸く討ち取る事が出来た喜びの侭に、ゼロの遥か後方では宴が開かれていた。「あまりハメを外し過ぎるな」とは苦言したものの、果たして無理な要求である。玉城は勿論の事、普段はストッパーに成りがちな扇でさえもが子供のように歓声を上げていた。
それ程に、苦渋を舐めさせられ続けて来たのだ。騎士団創設の以前より、ずっと。
意外にも、ゼロの心に歓喜は生まれなかった。
安堵。
ただそれのみである。
張り詰めていた糸が摩耗し擦り切れかけた今になって、やっと弛む事を赦された心地で。頭の底は冷えたまま、感情は粟立つ事無く。
ともすれば安らかとすら言える息を尽いてゼロは一つの終わりを受け入れた。
団員の歓声の代わりと言わんがばかりに一度だけ下方で波が大きなしぶきの叫びを上げた。
ゼロが居るのは切り立った崖の上である。
先の戦闘において深く抉り取られた台地は、そのまま水を呼び海岸線を変えた。ゼロの数メートル先には新たに生まれたばかりの海が息を潜めて世界を覗っている。
じっと。
波音に呼応してか、今度は風が唸りを上げた。遮る物の無いゼロの頬を打ち、容赦無く体温を根こそぎ奪っていこうとする。
遮る物は何も無かった。
今、ゼロは仮面を付けていない。
『ゼロ』の象徴とも言えるそれは、おそらくは周囲の何処かには転がっている筈であった。けれどゼロは探そうとは思わない。
最早必要の無くなった物である。
例えそれが何であろうと、ゼロは必要の無くなった物には一切の興味も抱かない。棄て去るのみである。それが人であろうと、物であろうと、心で、あろうと。――ゼロが、その名の示す通りに『ゼロ』になろうとも。
ゼロは右手の中のカギに目を落とした。
手の平に収まるには僅かに大きく、確かな質量を持って存在するそれは、白いナイトメアの起動キーであった。ゼロの熱を吸い取って手に馴染むそれには傷一つ無い。
背後を取られた形で攻撃を受けた白鉄のナイトメアは相変わらずの反応速度で避けようとしたが、一瞬、明らかに動きが止まった。
理由など知る由もないが、ゼロはその瞬間をつぶさに見ていた。
紅蓮弐式の高周波がコクピットを抉り左側面を吹き飛ばし、動力部ごと瞬時に壊したが為に誘爆が起こる事無く右側前面のメインフレームが無傷に近い形で遺るに至ったその総てを。眼前で行われた破壊の総てを、その終焉を、余す所無くゼロは間近で生身のまま見ていた。
戦いの熱が消え去り、危険の無き事を確認し終えたのちに覗き込めば、コクピットもパイロットごと吹き飛ばされ、罅が入り暗転したモニターと、刺さったままの起動キーの紐が虚しく風に揺れるのみであった。
ゼロはそれを手に取った。
特に何か意味や感情を持たせての行為では無い。ただ無作為に抜き取っただけの事である。
しばし手の内にあるそれを眺めて、おもむろにゼロは背を起こし崖の先へと歩み出した。
度重なる戦闘を原因とする疲労によって足取りは軽くなくとも、動作に何ら支障はない。たった数歩で辿り着いたその場所で、ゼロは垓下の黒々とした海を睥睨した。水面に浮かぶ虚像の月さえ無ければ、果たしてそれが崖の一部であるか、判然とせぬ闇。
崖は、淵であり境にして垓である。
古より世界の終焉の地とされてきた場所。
世界の、果て。
ブリタニアと黒の騎士団にとって、大きな意味を持つものであった一つの『終わり』は、世界に新たな終息の地を創り出した。
手向けには、酷くお誂え向きだ。
――ゼロにとって、それはほんの些事であったが。
掌のカギは依然としてゼロの肌に馴染んだままである。
投げれば手に張り付いて離れぬやも知れぬ思ったが、軽く腕を振り上げれば自明の理の如くあっさりとそれは離れ、闇へと放られた。
熱を享有していた存在が無くなり、ゼロの掌にも冷たい夜気が突き刺さる。
痛みすら感ずる温度を、拳を握る事で振り払う。されどゼロとその身の立つ世の界に蔓延する冷気は変わる事無く其処に在り続けた。
ゼロの冷え切った青白い頬を、月が一層白く照らし出す。放られたカギも、闇の中で月の光を浴びて煌々と光りを弾いた。それが昏い虚空に融けて消えるまでを見届け、ゼロは目蓋を降ろし視界と共に世界を遮断する。
海鳥は啼かない。波音は届かない。
夜明けが来る事は、無い。
ゼロの閉じた世界には、ただ皓皓とした闇が広がるだけだ。
遠く、とおく。やや在ってのち、遠く離れた地の底でボチャンと水音がした。
不要なる「もの」が棄てられた。
ただ、それだけの話である。
2007.01.03 それだけの話。 end