それはあまりに儚い世界であったけれど、それでも誰も気付きはしなかったのはその世界があまりに日常に模して創られていたからだろう。
昨日と今日の境、過去が未来に変幻する刹那においてのみ存在を赦されていた世界は、一瞬一瞬が奇跡のような希少さで、けれど見せ掛けの普遍さも持ち合わせていたものだから、それを創った当人と、創らせるに至った住人以外、誰も気付く事が出来なかったのかもしれない。
どれだけ眼前にあるものが尊く無二の価値を有するものでも、それを理解していなければ路傍の石を踏み付けるように壊すのに躊躇いは生まれなかったのだろう。壊した、という事を理解する事すら赦されていないのかもしれないけれど。
そのままであれば、壊した張本人である所の人物の日常は何事も無く通り過ぎていただろうが、残念ながら住人たちは中々アクの強い人々に愛されていた。破壊者は、忌むべき加害者であると同時に憐れな被害者でもあったのだけれど、創られた世界の中においては住人達はすべからく被害者であったから、怒りのベクトルはひたすらに破壊者である人間に向かった。

そうして、一つずつ一つずつ場が整えられてゆく。

――裁決の日は、すぐそこにあった。





『嘘をついてごめん、ナナリー』

偽りを為した事に歪み、それでもナナリーが拾う事が出来る声だけは何ら平素と変わる事無く届けられた懺悔の言葉を、ナナリーがどんな表情で受け止めたのか、ナナリーの背後に佇んでいた咲世子は知らない。ただ、微笑んでいただろう事は、その声から知れた。
『それでも、いつかは本当になるのでしょう?』
弾かれたようにルルーシュが顔を上げて、膝を着いて握っていたナナリーの手を自分の手ごと額に当てた。
まるで、祈りのように。
『…あぁ、必ず。何よりも愛しているよ、ナナリー。』
『誰よりも愛してます。お兄様』
偽りの名の下に存在していた兄妹は、その言葉を以って世界から消えた。


「もうお休みになられた方が宜しいのではないですか? ナナリー様」
本来眠るには些か早い時間ではあったが、これから住まう事となった広い一室で、咲世子はナナリーに訪ねた。
カレンと別れ、ナナリーとも知り合いらしい桐原と名乗る老人に連れられ、友人だと言っていたサクヤという少女としばし過ごした後。現在2人が佇む部屋での事だ。――ちなみに桐原という名前とその新聞で見かけた事のある顔に背筋を冷や汗が流れ、「サクヤとお呼び下さいね」と微笑んだ少女の服装に咲世子は叫び声を上げそうになったが何とか堪えた。つい数時間前に確信を与えられたナナリーの本来の身分を考えれば少女の位はおそらく咲世子の考えた通りのものであるのだろうが、何とか今は落ち着いている。
何よりもナナリーの為にも咲世子が取り乱してはいけないのだ。

篠崎咲世子は元々アッシュフォードに雇われていたメイドである。アッシュフォード学園理事長のルーベン・アッシュフォードに拾われ、孫娘であるミレイの専属メイドとして働いていたが、「心してお世話するように」といきなり念を押されてから、「私からの誕生日プレゼントー!」という言葉と共にランペルージ兄妹へと贈られた。――咲世子への誕生日プレゼントではなくナナリーの誕生日に、咲世子「が」贈られたのである。
人権を無視した横暴な行動であるように端からは見えるが、咲世子には当時も今も微塵の不満も存在しなかった。
新しく世話をする事になった兄妹は美しく愛らしく、何より「イレヴン」に対する偏見が全く無かったし、そもそも咲世子には職場を選ぶ権利は有って無いようなものだ。

もちろん始めからルルーシュの命に等しいナナリーの世話を任される事は無く、咲世子が来た当初ナナリーの世話も身の回りの事もルルーシュ一人がほぼ全て自分でやってしまっていたので、咲世子の仕事は殆ど無かったと言って良いだろう。
単にそれは身体に流れる異なる血に対する不信感が原因かとも思っていた。ブリタニア人は一部の主義者を除き、ナンバーズに対する差別がとても強い。『アッシュフォードに仕えています』と看板を背負う変わりにメイド服を着て買い物に出かけなければ品物を売ってくれない事だってあった程だ。
だからやはりランペルージ兄妹もそうなのだろうか、と落ち込みそうになったが、それならば彼等の――特にナナリーの申し訳無さそうな空気の説明が付かなかった。

やる事が殆ど無く、けれどその理由も判らない。
仕方無しに、咲世子は余っている時間中彼等を見ている事にした。
傍観者のように。観察者のように。何かあればすぐに手を貸せる位置で、身寄りの無いらしい見目麗しい兄妹の日常を注意深く見守り続けた。

――気付いた事はたくさんあった。
彼等の好物。趣味。得意な事や苦手な事。お互いしか見えていなくて、ちょっとした動作がひどく優雅で美しい事と――何かに、怯えているらしい事。
ある日、クラブハウスを辞した数時間後に忘れ物をした事に気付き、慌てて戻った電気の消えた部屋で、突き付けられたのは鈍い銀色の光を放つナイフと「誰だっ!」という引き裂かれた悲鳴のような怒声だった。
侵入者ではなく咲世子だと判ると刃は仕舞われたが、その時のルルーシュの表情と声は咲世子の心を揺らし続けた。その数日後に聞いてしまった、悪夢を見たらしいナナリーの叫び声は興味本位で聞いてしまいそうになる咲世子を塞き止めた。

だから待った。

傷付いた獣が咲世子の手を受け入れてくれるまで、身動きせずにじっとしているように。ルルーシュが咲世子を認めてくれるまで、傍観者の位置で息を殺して待ち続けた。

ただ転機は唐突に、人の形をして走ってやって来た。
『私の事が信じられないワケ?!』
ルルーシュの胸倉を掴み上げながら、咲世子の元の主であるところのミレイ・アッシュフォードは怒髪天を衝く勢いで喚いた。
『咲世子はね! 私が一番信頼できると思って、だからナナリーの世話をしてくれって頼んだのよ?!』
初耳だ。けれど賢明にも咲世子は口を挟まなかった。
『それなのに! 咲世子の仕事をルルーシュが全部獲ってどうするのよ!』
『全部って程では……』
『殆どでしょうが! それともナニ?! ナナリーの事はナニから何まで自分でやらなきゃ気が済まないっ?! 年頃の女の子が家族とはいえ立派な異性に手を出される事への羞恥心を少しは思いやりなさい!』
その言葉にあっさりとルルーシュは折れた。断じて首を絞められて酸欠になったからでは無いだろう。
そうして、咲世子は何とか仕事を全うする権利を得て、いつしか「ナナリーをお願いします」という言葉をルルーシュから与えられる事が出来る程になった。初めてそう言って貰えた時には、涙ぐむほど嬉しかったのを覚えている。筆舌し難い喜びだった。


…そして、キョウトへ向かう前に言われた「ナナリーをお願いします」という言葉がどれ程苦しかったか。
「長時間車内にいたのですから、負担も大きいでしょうし…」
「そうですね…。でも、付き合せてしまってごめんなさい、咲世子さん」
「ナナリー様?!」
「それと、付いて来て下さってありがとうございます。咲世子さんが側に居てくれると、とても安心しますから」
そう言うナナリーの方が、咲世子より余程落ち着いていると思うが、咲世子はその言葉に甘える事にした。誰かに頼られるという状況は、ひどく冷静になれる事もあるのだ。
「私もナナリー様が一緒でとても安心しております」
スカートの上に行儀良く重ねられているナナリーの手に、いつものように咲世子の手も重ねる。
その手がいつもと違い僅かに小刻みに震えていて、目を見開いてナナリーの顔を見上げた。
「お兄様と離れて生活するのは始めてなので、ちょっと不安ですけど」
眉を下げた微苦笑で付け加えられた言葉は、紛れも無いナナリーの本心なのだろう。
どれだけこの場所が安全であろうと、ナナリーにとって兄の存在に勝るものは無い。
「お辛いですか……」
「いいえ、私よりもお兄様が一番辛いんですから。それに――」

わたし、うれしかったんです。

囁きが、耳朶を打った。
「何となく、本当は気付いていました。お兄様が何をなさっているのか。
でも、半分はお兄様に恋人が出来たんじゃないかって思ってました」
「ナナリー様…」
そうであれば、そんな可愛らしい理由ならナナリーにとってどれ程良かっただろうか。
血生臭い現実ではなく、新しい幸福を作る事が出来ただろうに。
そう思ったが、続けられた言葉は全く逆の、答え。
「だから、私、嬉しかったんです。お兄様が、ゼロで、嬉しかった」
泣き笑いのように、歪んだ表情をナナリーは白いかんばせに重ねる。
「酷い、妹ですよね。お兄様は自分の手を汚して、痛くて辛い思いをして、苦しんでいるのに。シャーリーさんのように、誰かがお兄様の行動で悲しみを負っているのに、私はお兄様がゼロで嬉しかった。
お兄様には誰より幸せになって欲しいのに、お兄様が側にいてくれるだけで幸せなのに、私、お兄様が私の為に戦ってくれていて嬉しかった……っ!」
重ねた手の平の上に、ぱたぱたと透明な雫が弾けて落ちる。いくつも、いくつも。
「スザクさんの事だって、そう。
スザクさんと戦われる事が、お兄様にとってどれ程苦しいかなんて判っているのに、それなのに戦う事を選んでくれて嬉しかったっ。スザクさんじゃなくて私を選んでくれて嬉しかった。嬉しかったんです。私。」
それは、狂おしいほどの純粋な愛情なのだろう。
たった一人を望み、たった一人だけに向けられた純愛。
2人だけで完遂されてしまう、小さく頑なな世界。
どんな汚濁でさえ跳ね返してしまう程の力を持った、一対の2人。
――もしかしたら、その小さな世界の3人目の住人になれたのかもしれなかった、兄妹の大切「だった」人間は、もう居ない。

『彼等の』枢木スザクはもう居ない。

咲世子は枢木スザクの事をあまり知らない。
彼は職業軍人で学校に来る事は少なく、クラブハウスに寄る場合には兄妹との3人の時間を邪魔したくは無かったので、咲世子は会話に口を挟む事無く――変わらず観察者であり続けた。
ただ、同じ日本人同士、シンパシーは感じていたが。
そうして、理解した。
なぜ日本人に対してブリタニア人の2人がここまで親しげなのだろうと考えた事があったが、それはきっと枢木スザクという友人を通して、彼等は日本を知っていったからなのだろう。幼い頃に。
スザクは軍人らしからぬ穏やかな好青年で、いつだってルルーシュとナナリーを本当に大切そうな目で見詰めていた。
ナナリー以外には滅多に「本当」の意味で微笑まないルルーシュが心から笑いかける姿を目にして、ルルーシュもスザクの事を大切にしている事が知れた。
あまり遠慮の無い甘えを含んだ気安い態度に隠されていたが、彼は殆どルルーシュ達の事情――ゼロに関する事ではなく――も知っていたのだろう。
そうでなければナナリーのカレンに向けた言葉も、「うそつき」と零れた言葉の意味も、別れ際のルルーシュのひどく傷付けられた眼の説明も付かない。
――彼は、『事情』を知っていながら、己の大切だった兄妹ではない皇女の手を取ったのだ。

それに挟む口を咲世子は持たない。
だが悲しいとは思った。
また2人ぼっちになってしまった兄妹も、いつか裏切ったという事実を突き付けられるであろう彼も。
悲しいほどに、憐れだ。

「私は何も出来ないのに、お兄様が戦ってくれて――ゼロである事を選んでくれて、心の何処かで安心してたんです…」
「――なら、私と同じですね。ナナリー様」
「え?」
けれど、自分は仕えるべき人を決して間違えずに支えていくのだと咲世子は誓った。
彼等は、憐れなままで終わらせないのだと。
騎士でなくても、非力なメイドにも「主」はいるのだ。
「私も、ルルーシュ様がゼロで嬉しかったのですから」
咲世子は目の前で涙を零す主の一人に、優しく声をかけた。偽りではなく、咲世子の本心を。
「私もルルーシュ様がナナリー様の為にも、ゼロとなる事を選ばれて嬉しかったんです」
だって、ゼロは『イレヴン』のヒーローなのだから。
「それに、ナナリー様も十分に戦っておられます」
「私が、ですか?」
落ち着いているように見えても、唐突に崩れた日常にやはり混乱しているのだろう。
常なら咲世子に言われるまでも無く己に架している『戦い方』を失念しているナナリーに、言葉少なく伝える。
それだけで、ナナリーは強さを取り戻す。
兄の為に。
「えぇ。ナナリー様にしか出来ない事です」
「私、だけ?」
「カレン様も仰っていらしたでしょう?
ナナリー様は、ルルーシュ様のお戻りになられる『場所』を、護らなければ」
ナナリーの存在こそが、ルルーシュの帰る場所なのだから。カレンもミレイも咲世子も、おそらくあのC.C.という少女も判っている。

ナナリーはルルーシュの妹なだけあって、とても聡明な少女だ。己の一番大切な兄が、何よりナナリーの存在を一番――それこそ自身の命よりも大切にしているのだと知っている。
そしてだからこそ、ナナリーは『一番』を選べない。
選んではいけないのだと熟知している。お互いが最も大切な人であるからこそ、ナナリーはルルーシュを選ぶ事が出来ずにいる。ナナリーがルルーシュを選んで、兄を護る為に危険に身を投じれば、ルルーシュはナナリーを庇うのだろう。
自分の命でもって。
命を賭して戦う戦場に在って、更に総てをもって庇う存在があれば、待つのは逃れられない死だ。
ナナリーはきちんとそれを理解している。足手纏いにしかならない事を。
だから、ナナリーは『一番』を、ルルーシュを選ぶ事は出来ない。
ルルーシュの命を護る為に、自分の命を危険に晒す事だけはあってはならない。――本当は、カレンのような位置が、ミレイやC.C.のような立場こそがナナリーの望む在り方なのだ。誇りを持って「ルルーシュの剣」だと言い切った、命を預け信頼を得られる存在。
護られるだけではない在り方。
それなのにルルーシュの為にこそ、ナナリーは自分自身を一番に護らなくてはならないのだ。
ルルーシュの存在ではなく、その望みの為に。

それがどれ程ナナリーにとって歯痒いか知れない。
ルルーシュが傷付き血を流しているその傍らで、ナナリーは己の無傷を護らなければならないのだから。
どんなにその傷の共有を求めていても、それだけは決して許されないのだから。
ルルーシュが。――そして、何よりナナリー自身が。
兄の妨げとなる事を、心を抉る疵となる事を、己の望みより遥かに強く厭うている。明確なる二律背反は、それでも「ルルーシュが望む」というそれだけの理由で、しっかりとした傾きを得ていた。
ルルーシュの力となるのではなく、ルルーシュの安らぎで在り続ける方へ。

それこそがナナリーにしか出来ない『戦い方』なのだと。

そうやって彼等兄妹は2人きりで完結された世界を護っていた。
ルルーシュはナナリーの意思を犠牲にして、ナナリーはルルーシュの安全を捧げて。
繋いだ手が離れる事の無いように、互いに絶えず努力と我慢をしながらアッシュフォードの創った箱庭の中で息を潜めて生きていた。

それを誰よりも理解していながらも弱音を吐いてしまうのは、やはり生まれて初めて最愛の兄と遠く隔たれてしまった環境が大きいのだろう。
そして、その原因がよりにもよって枢木スザクであったという事実。
「…咲世子さんは強いですね」
感心したようなナナリーの声がくすぐったい。
「あら、ナナリー様は十分にお強いですよ?」
「そうでしょうか?」
「えぇ。女というものは愛する殿方の為には何より強くなれるものです」
たとえそれが恋愛感情でなくても、とは付け加えずに茶目っ気たっぷりに咲世子は笑った。
そうすればナナリーの返す声も、明るさを取り戻す。
「まぁ!咲世子さんもライバルになってしまわれるのかしら?」
「いえいえ。ミレイお嬢様やカレン様にC.C.様、何よりナナリー様を相手取るなんて私には出来ません」
咲世子のルルーシュへ向ける感情はナナリーに向けるものと寸分違わぬものであるのを知っているからこそ、ナナリーは軽口を言ってしまえるのだろう。
「ねぇ、咲世子さん。それならお願いしても良いでしょうか」
「何ですか? ナナリー様」


「お兄様が狼少年になってしまったら、必ず私に教えて下さいね。…絶対に。」


明るい口調のまま、突如として出された童話の――その結末を瞬時に悟って、咲世子の背中をまるでナイフので撫でるように冷たい汗が滑り落ちた。
二重に秘された暗喩は、2人の兄妹をずっと側で見詰め続けていた咲世子だからこそ、判る事の出来たものだろう。
「……私で宜しいのですか?」
「だって咲世子さんしか、お兄様がついた私の為の優しい嘘を知らないでしょう?
それに、サクヤさんや桐原さんはきっと教えて下さらないでしょうから」
あぁ、本当に強い少女だと咲世子は思った。
何でも無い事のように伝えてしまえる程に、ナナリーの中では当然のようにその『選択』は決定事項なのだ。例えルルーシュが戦場に身を投じなくとも、以前よりずっと昔――或いは兄妹がふたりぼっちになってしまった頃から、ずっとずっと。

己の世界の在り方を、決めてしまっている。

「それでしたら、何があっても――お伝え致しますね」
お願いします、と微笑むナナリーの髪を、そっと咲世子は撫でた。
ナナリーの兄が撫でたように。
クラブハウスでの別れの触れ合いが、最期にならない未来がある事をただ祈って。





咲世子は元々ミレイに仕えていたメイドだった。
けれど名を喪った美しき兄妹へと贈られ、今ではすっかり彼等が咲世子の主だ。
だから彼等の最期まで仕えるし、主を喪えばまた新たな働き口を探さなければならないだろう。
それがずっと先の未来か、すぐ明日の事なのかは判らないけれど、咲世子は一つだけ決めた事がある。
もし、咲世子が近々路頭に迷うような事があったなら、必ず白い狼に伝えるのだ。



貴方はその牙で優しい嘘吐きを引き裂くと同時に、その妹も弑したのだと。








2007.03.01 終着した哀情