『私はね、お前の総てが欲しいのだよ。ルルーシュ』
甘く、恋人に囁くように、告げる。
ルルーシュは辟易するようなその甘さを微塵も信じずに、けれど言葉の裏を読み取る為に機械越しの声に意識を集中させた。己と、ナナリーの未来の為に。
「貴方は既に俺の総てを好きに出来る立場にいるでしょう」
『それでは意味が無い、と何度言ったら判るんだ?ルルーシュ。気付いていながら信じようとしないのはお前の悪い癖だ。』
信じられる訳が無いだろう、と吐き捨てたい心境で、ルルーシュは受話器を握る手に力を込めた。
声だけの通信ではなくリアルタイムで顔を晒して喋れるだけの権力も設備も十二分に有する男が望んだのは、何を思ったか音声のみの会話だった。それに意味を見出せないルルーシュに、『8年越しの待ち望んだ再会が機械を通してでは味気ないだろう?』とシュナイゼルは宣った。この義兄の決定に対し、ルルーシュにそれに否やを言う権利は無い。
ナナリーをキョウトに逃がし、C.C.を騎士団のアジトへ向かわせた直後。見計らったかのようにやって来たロイド・アスプルンドによって特派のエントトレーラーへ引きずり込まれ、「ごゆっくりどうぞ」という言葉と共に一人きりにされて強制的に繋がった通信は、久しく聞いてなかった義兄のものだった。

ルルーシュの、所有者となる男。

『私はお前が欲しいが、支配したい訳では無い。私の下へ戻ってくるのであればお前はお前の好きに生きれば良い。』
「ずいぶんと寛容ですね」
勝者は敗者に寛大であるべき、と王者の哲学を実践している訳ではなかろうに。
『今回の件が無ければお前にはもっと時間と違った立場を与えられたのだが――まぁ、今は詮無い話だ。少なくとも一度は私と共に本国へ戻る事となろう』
「判りました」
硬い声で応じるルルーシュに、シュナイゼルは『仕方の無い子だ』と苦笑したようだった。
それが場違いなほどに優しくて、ルルーシュは今すぐにここから逃げ出したい心地に駆られた。きっと、このまま会話を続ければ絡めとられる――ルルーシュの、意思ごと。
『枢木スザクがランスロットのデヴァイサーに最も相応しいと報告を受けた時は何の因果かと思ったがね』
「…………」
『アレはお前の為に造らせた機体だ。お前だけの為に、道楽と言われながらも金と時間を費やした世界に一つしか造る事の出来ない最高の玩具だ』
「…俺の、為?」
何を馬鹿な事を、とは笑えなかった。そう言って一笑に付すには、シュナイゼルの声はあまりに真摯だった。
『お前が生きている事は知っていたよ。何の確証など無くとも、ひたすらに信じていた』
まるで、盲信のように。
『そうして、お前が生きているのなら決して私達を、ブリタニアという国を許さぬだろうと知っていた。必ず牙を剥く日が来る事を確信していた。

――ルルーシュ。ゼロは、お前だね?』

(…あぁ、やはり――)
そぅっと、瞼を閉ざした。
正体を知られても竦然は感じない。どうせ何もかもこの男の掌の上なのだ。
「――そうですよ」
『口外するつもりは無い。ただ確認したかった。
…私の悪巧みも中々功を奏したようだね。』
わるだくみ、とルルーシュは口内で反芻する。
『お前がエリア11で行動を起こした時に、すぐに私の下へ知れるように特派を送った。必ず阻めるようにランスロットを造った。
お前を阻み、そしてお前を護るように。』
「それにしては何度も殺されかけましたが」
『だが死ななかった。』
「結果論です」
『結果を生み出せない過程や過ぎ去った仮定などに意味は無いと思わないか?』
(まったく…)
眼の色だけならまだしも、思考回路がこうも似なくて良いだろうに、とルルーシュは笑いに似た吐息を零した。失笑、ではあったけれど。
それを抜け目無く拾って、シュナイゼルが嬉しそうな声を出した。
『あぁ、ようやく笑ってくれたな』
「………」
『本来であればお前が私の下へ戻った暁にはお前の騎士にでもしてやろうと思っていたが、思わぬ伏兵に予定が狂った。』
今少しお前には箱庭の生活を楽しませてやろうと思っていたのに、と続けられてもルルーシュは咄嗟に反応できなかった。シュナイゼルは、今、何と言った。
「――俺の、騎士?!」
『そう驚かずとも良かろう。』
なんせ、あの枢木スザクなのだから、と直接スザクを知りもしない人間から断言されて、ルルーシュは二の句が告げられなかった。
「…貴方は何がしたいのですか」
『判らないか?』
「判る訳が無いでしょう……っ!」
困った子だ、とシュナイゼルが笑った。
通信が映像を映し出してなくて良かったとルルーシュは歯を食いしばって俯いた。こんな歪んだ表情を誰かに――母を殺したかもしれない男に見せる事は耐えられなかった。

『私はとても判り易い人間だ。もう、判っているだろう。ルルーシュ』
ルルーシュの行動は、シュナイゼルにとってさぞかし都合の良いものだったのだろう。クロヴィスを殺し、コーネリアの力を弱め、更には己の直属の部隊の力を知らしめた。
――…けれど、それなら『ここまで』する必要は無かった筈だ。
ルルーシュが生きている事を頑なに信じ込み、己の手足となる部下を遠く小さな島国へと送り。復讐を果たす為に行動を起こすであろう義弟をそこに縛り付ける為に、莫大な費用を費やして障壁となる機体を造り出す。そうやって、ゼロの正体を確信した上で『ルルーシュ』を探す。唯一の誤算はシュナイゼル自身の手が忙殺され直接エリア11へ向ける事が叶わなかった事と、腹心の部下が障壁造りに夢中になりすぎて探索には全く役に立たなかった事ではあるが。

『判らないフリは止めなさい。簡単な事だ。私はお前が愛しいのだよルルーシュ。』

世界で、誰も知らない秘密を吐露するように、密やかに、けれど心の総てを注ぎ込むように強く、したたかに、シュナイゼルはルルーシュの名前を呼んだ。
決して、棄てる事の出来なかったルルーシュの名を。
「シュナイゼル、あにう、え」
(――…もう、やめてくれ)
懇願したかった。憎ませてくれと。恨んだままでいさせてくれと。
身勝手にもルルーシュの仮初の平穏を壊し、スザクと殺し合わせるように仕組んだのだと恨んでいたかった。それならばシュナイゼルが広げた腕の中に、刃を突き立てる事が出来た。どんな責め苦より甘く、柔らかな、真綿で首を絞めていくような息苦しさは味合わずに済んだのに。――なのに。
「…貴方は残酷だっ」
『あの男の子としてこの世に生を受けた時点で、私もお前も人でなしなのだろう』
自嘲するようにシュナイゼルが笑う。
『…枢木スザクの件に関しては完全に裏目に出た事だしな』
労わるような声が苦しくて、ぎっ、と下唇を噛んだ。全くだ、と毒突くには声があたたかすぎた。
『ユーフェミアがあの男を騎士に指名する事も、それが揉み消す事の出来ない公式の場であった事も、予想外の出来事だった。私にとっても、コーネリアにしても……お前にとっても。ルルーシュ』
「俺は、」
『お前が望むならあの男を殺すも容易い。
選ぶがいい。生殺与奪の権はお前にある』

殺す。
その言葉に、ごくり、とルルーシュは唾を呑み込んだ。口の中がひどく渇いていて、舌が咽喉に貼り付き思うように言葉が上手く出て来ない。
(スザクを――ころす?)
それが、一番善い方法だと、ルルーシュは理解している。
『枢木』の人間が日本に侵攻し支配している国の皇女に仕えるとなれば、戦意の低下は免れない上に、漸く育った反逆の芽が内部崩壊で潰えかねない。
何よりスザクの操る白兜の突破力も、それを支える機動力も大きな障害だ。
スザクを殺してしまえば、一度にあらゆる問題が解決するのだ。ルルーシュは正確にそのメリットを算出できる。――それなのに。
(…出来る訳が、ない)
初めてルルーシュの手を引いてくれた子供。
安らぎを与えてくれた翡翠。
一人きりの、対等な「友達」。

――そのスザクを、殺す事は出来ない。

例え殺そうとしても、ルルーシュはきっと土壇場で躊躇ってしまう。躊躇して、計画を駄目にしてしまう。それだけは絶対に避けなければならない。ゼロ、として。
けれど、スザク一人の為にルルーシュは望みを諦められない。もう立ち止る事は出来ない。
ゼロを殺してルルーシュに戻る事は許されない。
流された血が、殺してきた命が、シャーリーの涙がそれを許さない。
屍で作られた修羅の道に、引き返す先など在りはしない。
(スザクを、選ぶ事は赦せない。)
なによりも、自分こそが。
けれど、だから。

「…あの白いナイトメアは邪魔です」
電波の向こう、遠く空と海を隔てて、耳を凝らして、漸く拾える程度に小さく、小さな声で、ルルーシュは掠れた音を伝えた。
それが、精一杯だった。
本当の意味での『覚悟』を決めるには、二度の連続した衝撃は大きく、また唐突過ぎた。
まるで泣いているかのような掠れた声に、シュナイゼルはそっと溜息で返す。
『ギリギリ及第点というところか』
本当に仕方の無い子だ。
耳朶に当たる声に垣間見えるのは、かつての離宮で周囲の愛情を疑いもせず信じ受け入れていた頃のものと寸分変わらぬもので――幼い腹違いの弟に対する静かで澄んだ愛情がそこに存在していて、ルルーシュはこの兄の言葉を受け入れたがっている自分を自覚した。多くの兄弟と臣下に囲まれていたあの日々が、向けられていた感情が偽りではなかったのだと信じていたかった。ルルーシュの中に残っている母が殺される前の幼い自分が叫んでいる声に耳を傾けてしまいたかった。
――すべて、明け渡してしまえばいい。――
(でも、それは出来ないのです。兄上。)
『ならば安心するといい。ランスロットがお前の行動を阻む事はもう無いだろう。もはや必要無いからな』
「ありがとうございます…」
ルルーシュはゼロだ。ゼロである事を、やめられはしない。
どんなにスザクが欲しくても、それだけは望めない。ナナリーの存在を手放す事は出来ない。

…欲しいものと、棄てられないものは違うのだから。



『この世で一番強い感情はなんだと思う?』
「え……?」
虚を突かれ、ひどく幼い声が出た事にルルーシュは気付かない。――まるで、幼いルルーシュが当時既に成人していた兄の言葉に反応した時のような声、だとは。
『お前にとってそれは憎悪だろう。私にとっては少し違うが』
「…では、何と?」
突然に話題を変えたその意図が判らず、ルルーシュは困窮して眉根を寄せる。


『嫉妬だよ』


笑い声のそれは、けれどシュナイゼルが本気でそう思っている事を窺わせるには十分過ぎる重さを持ってルルーシュの鼓膜から脳蓋までを揺さぶった。
『…それが誰に向けられたものであるか、もう判っているだろう。ルルーシュ。』
頷く事は出来なかった。肯定してしまえば、シュナイゼルの暗に示す前提条件である感情を見とめる事に他ならなかった。
『だがお前もそう言っておきながら己の至上には別の感情を据えている。
ひどい矛盾だと思わないか? お前は世界への怨嗟の声を吐き捨てながら、愛する者達を棄てる事が出来ない。』
「…それは、」
『だから私が護ってあげよう。たとえどれ程その者達が疎ましく嫉ましくとも』
縋ってしまっても構わないのだと、シュナイゼルが言う。
「…貴方は、」
『うん?』
「俺の、為に。…なぜ、そこまでするの、ですか。」
『――強情な子だね。ルルーシュ』
映像があれば良かったのに、とルルーシュは思った。その眼が声と正反対の冷たさを湛えていれば、ルルーシュはその言葉を一笑に出来たのに。

――顔が見えなくて良かった、と思った。ルルーシュが心を傾ける者達すべてに嫉妬し、それでなおルルーシュの為に庇護しようと言う兄の表情を見てしまえば、その偽りの一切を含まぬ笑みを目にしてしまえば、もう、戯言だと己に言い聞かせる事さえも出来なくなってしまうから。

『ルルーシュ』

シュナイゼルが甘く、蕩けるように囁く。
ルルーシュはただ、もう何も聞きたくなくて受話器を持つ手の力を抜いた。




『あいしているよ』




逃れられない呪いのように、床の寸前まで落ちた囁きが何処までもルルーシュを追い詰めて、ルルーシュは耳を削ぎ落としたくなった。








2007.02.19 消え逝く慕情 end