『俺を利用してみればいい』
始まりは確かそんな言葉だった。
『知りたいんだろう?あの女の心を。
――教えてやろうか。俺が、お前に』
彼女はマオにとって知らずに済む唯一の「他人」ではあったけれど、知らなければ知らないで、今度は逆に彼女が自分をどう思っているのか知りたくなる。
まるで彼女の何もかもを知り尽くしていると言わんばかりの男に殺意が沸いたが、提示された言葉は魅力的に過ぎた。
だからマオは差し出された手を取った。
孤独なおうさまの、見えない血に汚れた白くて綺麗な手を取った。

その手を、掴んだ。




「はぁ〜い〜、チェーックメイトー」
「………くっ」
「ルルーシュ全然駄目過ぎだよぉー。よーわーすーぎー。」
ボク退屈しちゃうよーとマオは腰掛けていたベッドに身を投げ出した。
上質のスプリングを有するそのベッドは衝撃にたわんで、マオの身体をしっかりと受けとめてくれる。ただその代償に、同じようにベッドの上で展開されていた正方形の戦場を引っ繰り返してしまったが。
(マオっ、馬鹿お前止めろ!)
「五月蝿いよルルーシュー」
「まだ何も言っていない!」
「『声』がウールーサーイー」
ぞんざいに言い放てば(業とやってるんだ!)とルルーシュの勝負に敗北した悔しさ交じりの『怒声』がマオの頭に響いた。
響いて、けれどすぐに尻すぼみに小さくなっていき、殆ど何も聞こえなくなる。
静かになったルルーシュをちらりと覗えば、彼はマオの所為で散らばった駒を拾いあげている所だった。
その姿にはもう勝負に負けた事への悔しさは微塵も見当たらず、マオはホッとしてシーツの海へと顔を突っ伏した。
掛けられたままのバイザーが顔に圧し付けられる。
ちょっとイタイ。

ルルーシュはチェスを行なう時、常に頭の中で対立する2つ以上の策を用いて盤面を進めて行く。それは誰にでも言える事だが、ルルーシュの無駄に良い頭は数こそ多いものの、明確過ぎるほどにマオにどうすれば勝てるのかを教えてくれる。だから、ルルーシュとマオの対戦は結局の所『ルルーシュの戦術』の勝利には違いないのだ。マオはいつもルルーシュの頭の中の戦術を拝借しているのだから。
ルルーシュもそこの所は承知しているので、瞬間的に悔しがりはするがすぐに冷める。何より最近のルルーシュは一方的に勝利する戦い方よりも、わざと混戦になるような戦い方ばかりを意図して脳裏に描くので、「弱すぎ」と言いつつもマオも実は圧されがちだ。少し前は惨敗ばかりだったのに今では惜敗にまで持ちこめて、ルルーシュはそれなりに満足していた。
一度感情の高ぶりが消えると、ルルーシュからは感情が聞こえなくなる。他は先程のチェスの戦術が幾通りも巡っているだけだ。

今ではもう、マオはルルーシュに関してほんの表層しか読み取る事が出来ない。それもルルーシュが意図して聞かせる感情と、聞かれても困らない思考だけ。
――尤も、ルルーシュのように頭でっかちの人間はそれでも十分にたくさんの事が流れ込んでくるのでうるさいのは確かだが、それでもヘッドホンをすれば驚くほど感じ取れる事が少なくなった。
日を追うごとに、ルルーシュはC.C.に近くなってきている。
それの意味する所にマオは気付かなくても、C.C.と一緒に居る為にルルーシュの側に居るのも苦ではなくなったのは確かだ。
ルルーシュの『声』は気にならない程小さいから。



マオがルルーシュと彼の妹の暮らすクラブハウスにやって来れるのは夜の間だけだ。昼間は学園に生徒達が居るので煩いし気持ち悪くて近寄れない。
マオは夜のこの場所は平気でも、昼のここは嫌いだった。
「ルル、ルルーシュ。ねぇ壊そう?早く壊しちゃおうよぉ。皆ミンナみんなみんな壊して殺しても良いから殺そう早くはやくはやく」
「『皆』は殺さない。邪魔をする奴等だけは別だが」
「何でさ。壊せば静かーになるのにぃっ!」
バタバタと足をベットに叩きつければ埃と一緒にチェスの駒が跳ねて床に落ちる。
聞き分けの無い子供の我侭にルルーシュは溜息をついた。
マオのギアスは確かに強力だが、強力過ぎて役に立たない。少なくとも、ルルーシュの行なおうとしている計画には不向き過ぎた。
母の死の真相を知っているコーネリアとシュナイゼルの中身を読ませようにも彼等は常に多くの人間に囲まれている為に、望む情報を引き出せる可能性は低い。
だからルルーシュはマオを黒の騎士団にも関わらせる気は無かった。

「あの扇っていう男とかさー、放置しておいて良いの〜?キミの事裏切っちゃうよぉ」
「不穏分子は早急に排除すべきだが、お前が思っているほど人間は単純じゃないんだ。
背信を胸に秘めているからといって一々処罰していれば切りが無い。おまけに扇みたいなタイプは何も言わなければそのままなのに、悩んでいる所を指摘すれば暴走する可能性も在る。逆効果だ」
そんな事、マオはわざわざ言われなくたって十分に熟知している。
人間は何時だって相反する感情をいくつもいくつも抱えて生きているのだ。笑顔で笑い合ってる向こうで嫌悪を募らせていたり矛盾ばかりで気持ちの悪い生き物だ。
ギアスのお陰で自分の方がルルーシュなんかよりよっぽど詳しいのだ、とマオは憮然とした。
(まぁ、お前の方がよっぽど詳しいだろうけどな)
それを見越したかのように届いた思考にマオはルルーシュを仰ぎ見た。ルルーシュはチェスの片付けをしたままだが、寄越された視線が悪戯気で『声』は笑っている。
「ずるいずるいずるいっ!ルルーシュはずるいっ!なんで違う能力持ってるのに僕の心まで判るのさぁっ!!」
「お前が単純だからだろ」
「ルールーっ!!」
ヒステリックにマオが叫んでもルルーシュの態度は変わらない。ルルーシュはマオの癇癪など疾うに馴れ切っているから誰もが眉を顰めるような金切り声も右から左へ流してしまう。
「お前は節操無しの覗き屋だが、自分の頭の中を他人の思考に犯されるのが堪え難いという事は…わかるさ」
犯される。
ルルーシュの表現は本当にマオの心を読み取ったかのように的確で、けれど今度はずるいと思うより先に心が何故かあたたかくなった。

ギアスの発動を止める事の出来ないマオにとって、人間は毒だ。C.C.だけが「他人」でいてくれる。それ以外の人間はマオが望まずとも聴覚からあらゆる感情を押しつけてきて、その進入はいつだって一方的で酷く暴力的だ。
どんなにマオが拒んでも勝手に喋りかけてきて、そのくせマオがそれを知っている事を気味悪がる。無理矢理聞かせるのは相手の方でマオではないのに。
「ボクは悪くない」
「そうだな」
「ボクは被害者だ。可哀想なんだ。アイツ等がおしゃべりなのが悪いんだよぉ。だから悪いのはアイツ等なんだ。ボクは悪くない、悪くない。わるくない」
病的に呟くマオを気にした様子も無くルルーシュがマオの髪を梳いてゆく。ヘッドホンを着けたままでいるから、その動きは何処かぎこちない。
(――かなしい)
ちいさく、ヘッドホンから流れるC.C.の声に掻き消されてしまうぐらいに小さく、ルルーシュの『声』がマオに届いた。その感情は、マオとマオの大嫌いな人間に向けられている。
(かなしい、かなしい)
(それは罪だ)
(あいつも、同じように叫んでいた)
(かなしい)
(どうして、あの時、)
(わるくない)
(いとしい)

(かなしい)

『壁』から洩れたとてもとても小さな『声』は断片しか拾えない。マオはすぐに聞く事を止めて、体温の低い冷たい手の動きに集中した。その動きはやはり何処かぎこちなくて、一瞬だけ、マオはヘッドホンを取ってしまおうかと思った。
もし、それでルルーシュの見せる気の無い感情も聞こえてきて、そこにマオへの嫌悪があったって別にマオは構わないのだ。そんなの、マオには少しも痛くない。マオにはC.C.さえ居てくれれば良いのだから。だからルルーシュが居なくたって構わない。
構わなかったが、結局マオは何もしなかった。
(――キミのこえを聞いていたいだけだよ。それだけだよC.C。心配しないでボクには君だけだ)
今はピザを買いに出かけているC.C.に向かって笑む。
「C.C.の前では言うなよ。あいつはお前に力を与えた事を後悔している」
「C.C.が?!そんな訳ないよぉ、馬鹿だねルルーシュはぁ!」
「…そうだな」
でも、ルルーシュがそう言うんなら黙っておこうとマオは決めた。

手は、いまだにマオを撫でていた。



マオが好きなのはC.C.だ。
C.C.がマオと一緒に居てくれるならマオは世界がどうなろうと構いはしない。
ルルーシュの手を取ったのもC.C.の心が知りたかっただけだ。
ただそれだけ。

孤独な王様はルルーシュで、マオはそれに応えてやっただけだ。
だから本当はマオこそが孤独で餓えていたなんて、そんな事無いのだ。
差し出された手を求めていたなんて事は無いのだ。


生まれて初めて差し出された手が、縋り付きたくなるぐらいに嬉しかったなんて事は、ないのだ。








2007.01.30 魔人の飼い猫(猛毒注意)end