ナナリーにとって、世界と兄は同義だった。

兄の存在こそがナナリーにとって一番大切なものであったし、ただひとつ必要なものだった。それは幼い頃から変わらない。
ずっと昔から。
何年も前はそこに母もいた。今はもういない、『美しいまま』の母だ。
ナナリーは母の最期をよく覚えていない。たとえ眠りの中で赤い悪夢として母が現われても、それはとても茫洋とした姿だ。輪郭の、あやふやな恐怖。それは当時ナナリーが幼かった事も理由のひとつであるし、冷たく、赤く、重たくて体を裂かれる痛みを味わったあの惨劇の瞬間を、精神が壊れないようにとナナリー自らが自己防衛のために心の奥深くに沈めたためでもあった。

世界を構成する人間が、2人から1人に減って、否応なしにその比重は重くなったけれど、兄もナナリーも特に困りはしなかった。
――お互いに、お互いだけになっただけだった。

あの日。
世界が決して優しいだけのうつくしいものでは無いと知った日。
笑顔を浮かべる近しい人達が、心まで自分達に近しくはないのだと思い知った日。
あの日から、ナナリーと兄は世界でふたりぼっちになった。

勿論、世界はそれだけでは無かった。――優しい人は、確かにいた。
遠い、小さな島国まで追いかけてきて守ろうとしてくれた姉のような人。
いつだって傍を離れず、親身に世話を焼いてくれた人。
泣きたくなるほどに強く、兄を守ると言ってくれた騎士のような人達。
偽りの中であっても、ずっと親しくしてくれた兄の学友達。

…幼い頃に出会い、別れ、再び出会えた、大切だった――ひと。

とても、優しい人達。
彼らにとっての世界が優しくあればいいと思う。
未来が、彼らにとって幸いであればと願う。
それは寸分の偽りも無いナナリーの本心だけれど、そこに兄が存在しなければ、ナナリーに意味は無い。
ナナリーにとって兄のいない世界に意味が、価値が無いのではなく、ナナリーの存在そのものこそに――もはや、価値が無い。
世界に、ナナリーはいらない。
ルルーシュの居ない場所には、「ナナリー・ランペルージ」も「ナナリー・ヴィ・ブリタニア」も、名もなき盲目の歩けない子供も、何一つ意味を有さない。

ひとは、きっと「それは違う」と言うだろう。
そんな事は無いと、微笑むだろう。
穏やかな笑顔で、たとえルルーシュが居なくても、ナナリー自身に個人としての価値があるのだと、大切なのだと、優しく手を握って諭すのだろう。
ナナリーの絶望を生み出した、その血にまみれた両手で。
完璧なまでに善意だけを以って。

そんな、上辺だけの言葉が、もう、少しもナナリーを揺らす事が無いのだと気付かずに。


――ナナリーの世界はルルーシュだ。
たった一人の人間が世界の構成を担うその歪みを、ナナリーはきちんと自覚している。
自覚してなお、それで良いと思う。
この歪みはナナリーだけのものだ。
ナナリー1人の中で生まれて、ナナリー1人の中だけで息づく在り方。
同じ時間を生きてきた兄でさえ共有し合えない、純粋であるが故の、歪さ。

そう。
ルルーシュは、違う。
この歪みを、ナナリーの兄は保有しないのだ。

――誰よりも愛しているよ――

(…『何より』も、あいしてます。お兄様。)

その言葉の明確な差異を、おそらくルルーシュは自覚していない。
ルルーシュにとって、世界で最も大切なものはナナリーだろうけれど、ナナリーが世界では無い。
ルルーシュの中には、ナナリーにそれを求める必要も無いほど確固たる「世界」という枠組みがあって、そこには自分もナナリーも、友人も他者も、幸福も悲しみも絶望も、…『彼』さえも、平等と差別によって形成された社会の中で存在していたのだろう。
一切の『私』のない、客観的な世界が。
ナナリーの為に優しい世界を作ろうとする行為そのものが、明確な違いだ。
それは単に、周りの環境ごと変革しなければ、自分達兄妹に安心できる場所など無いと理解していたからだろうけれど、その裏では弱者が虐げられている世界が許せないという、正義漢めいた潔癖な一面が強く背を押していたに違いない。

だって、本当は、何処だってよかったのだ。

世界がどれほど残酷な場所であっても、関係が無かった筈なのだ。
どこでだって、どんな場所でだって、2人でいられるのなら――…生きていける。
それは、ナナリーにとっての真理で、けれど、きっとルルーシュにとっての真実では無かった。
それだけの、ほんの僅かな差異が、2人の現在を隔ててしまったのだろう。きっと。
同質の、けれど同一では無かった望みの在り処。

それでも、後悔はない。
遠く隔たれて、どれほど心が兄を求めて泣き叫ぼうと、孤独に苛まれようとも、兄の足手まといになるよりもは遙かに良かった。
心の枷や、傷跡になるより遙かに。
何よりも恐れたのは、不自由なこの身が兄の絶望となること。この身から流れた血が、兄の心に傷を負わせてしまう事。
ナナリーだけは、どんな意味合いにおいても、ルルーシュを傷つけてはならない。
それこそが、ナナリーの世界の不文律。



…だから、今はただ、少しでもさいごが安らかであれと思う。





ざわめきが聞こえる。

薄くは無い壁を通して、閉め切られた一室の中にさえ恐慌が伝わってくるほど、空気が痛いくらいに震えている。

あぁ、終わってしまったのか。

すんなりと、ナナリーは世界の喪失を認識した。
終わった。
終わってしまった。
世界が消えてしまった。
けれど、そのこと自体に心はもう動かない。

――兄は、嘘吐きになってしまった。

その事だけが、ただ悲しい。
ルルーシュはいつだってナナリーに嘘を付かなかった。事実では無かったけれど、ずっと未来の、いつの日か叶えられるだろう願いを、話してくれた。優しく、うつくしい真実だけを、手渡してくれていた。
それは、ともすれば偽りに他ならなかったけれど、ルルーシュとナナリーにとっては一片の澱みも無い真実だった。
必ず実現される希望だった。
盲いた現実で、与えられるのはそれで充分だったのに。

…もう、箱庭の中で紡がれていた夢の残滓は跡形も無く消えてしまったのだろう。

(あぁ、けれどお兄様。
痛くは、なかったですか。
お辛くはなかったですか。苦しくはなかったですか。悲しくはなかったのでしょうか。
きっとC.C.さんやカレンさんも一緒だったでしょうから、寂しくはありませんでしたよね。
ミレイさんやカグヤさん、シュナイゼルお兄様もいらっしゃいますから、後の不安は無かったのでしょう。)
そっと、心の中で語りかける。

(わたしは、お兄様の痛みだけが心配です。)

どれほど、苦しかっただろう。
どれほど、悲しかっただろう。
実の兄姉を相手取り、何よりも欲した親友と剣を交わし合って。
何より求めたひとに、否定され続けて。
どれほどの痛みを、その細い身の内に抱え込んでいたのだろう。

(でもお兄様。お兄様、もう、わがままを言ってもいいでしょうか)
ずっと、我慢をしていた。お互いに。
ナナリーの存在の為に、ルルーシュは身の安全を。
ルルーシュの望みの為にナナリー自身の望みを。
大切な何かを捧げて、残った一つを奪われないように握りしめていた。
(ほんとうの、ほんとうは、やめて、と。言いたかったのです。お兄様)
嬉しかった。
幸せだった。
けれど、きっと同じくらいに悲しかった。苦しかった。
(そばに、いてくだされば、それでよかった)
けれど、そんな我侭は言えなかった。言う必要さえなかった。
その時にはもう、選び取ってしまっていたから。
(けれどお兄様。もう、我侭を言っても良いでしょう?)

世界は、壊されてしまった。

(お兄様。おにいさま。
あなたの世界は、まだ、在り続けるのですね。今までも。これからも。
おにいさまが居なくなっても、嘘付きになってしまっても、おにいさまの世界は、私の傍からおにいさまを連れ去ってしまったあの人が守り続けて下さるのでしょう。
へいわな、せかいを、与えて下さるのでしょう?
――なら、)

せかいは、壊れてしまった。
ナナリーのせかいだけが、居なくなってしまった。

(あいしているのです。おにいさま。
C.C.さんにも、カレンさんにも、ミレイさんにもシュナイゼルお兄様にさえ負けないくらいあいしているのです。
あいしているのです。あいしているのです。
私の世界は、おにいさまでした。
おにいさまを通したものだけが、私の世界でした。
…だから、どうか私の我侭を赦して下さい。)

ここにあるのは、もはや果たされる事の無い約束事だけだ。
――ならば、その為にナナリー自身の望みを犠牲にする必要も、どこにも無いのだ。


コンコン、硬く閉ざされていたドアがノックされる。
おそらくドアの向こうには青ざめた表情の咲世子が立ち尽くしているのだろう。ノックの音が歪に震えていた。
『約束』を、守ろうとしてくれているのだとすぐに判って、ナナリーはこれまで真摯に仕えてくれた彼女に申し訳なく思う。今日、この日まではナナリーが彼女の主でなければいけないのに。
(こんな主で、ごめんなさい。咲世子さん)
あなたを、すべてを置いてゆく。
置き去りにして、たったひとりの元へ駆けてゆく。
たとえ、兄がそれを望まなくとも。
(ごめんなさい。おにいさま。
怒りますか。悲しみますか。最後の最期で、おにいさまの望みよりも自分の我侭をとる私を。
…それでも、)

それでも、ナナリーは笑った。
誇り高い、可憐な花のような、幸福をかたちどった微笑みを。

(――わたくしは、ナナリー・ヴィ・ブリタニア。
マリアンヌ皇妃が末子。
ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの妹。


ゼロの、望み。)



あなた方に、恥じない姿を示しましょう。

さぁ、



「まいります」





2007.08.10 幸福の娘 end