ひどい、かおだ。

咲世子に連れられ、クラブハウスでナナリーの無事を喜ぶスザクの顔を見て、ルルーシュは思った。
先程までいきなり降って涌いた死の恐怖に曝された少女を安心させようとする男としての矜持と、心遣いではあったが、笑顔は引き攣って、声は硬い。明らかに無理をした何処か歪なそれは、人を安心させるどころか不安にしかさせない。
(ナナリーの側に今のスザクは置いてはいけない)
ナナリーの為にも、スザクの為にも。
「いつもの自分」に戻ろうとして、けれどちっとも戻れていないスザクに、ルルーシュの中で焦燥感だけが募ってゆく。
ルルーシュにとってそうであるように、おそらくスザクにとってもナナリーは「日常」の象徴だ。だから「いつもの自分」にスザクが戻る為にはナナリーの存在が必要でも、もっと時間を置かなければ壊れるのはスザクだ。
無数に罅が入り、空気が揺れるだけの振動でも易々と砕け散ってしまうだろうガラスのように不安定に過ぎる今のスザクに、「日常」は性急過ぎた。
ナナリーの傍についていなくてはと、兄として、巻き込んだ元々の原因としての想いが強く足を縛りつけてはいたが、気配に敏いナナリーにはスザクの様子が尋常でない事などお見通しで、ルルーシュはナナリーを咲世子に任せて自分は嫌がるスザクを部屋に引きずっていった。
上っ面は平静を取り戻しながらも、動転したスザクに抵抗するだけの力は無い。

――C.C.が部屋にいない事は判っていた。
一人になりたい時に、クラブハウスは不向きだ。ルルーシュが帰ってくると判っている部屋なら、尚更。
ナナリーから離れた途端、全ての表情が剥がれ落ちた無表情に戻ったスザクに、ルルーシュは寧ろホッとした。
今はルルーシュの事など気にせずにスザク自信の事だけを考えて欲しかった。
暴かれた胸のうちを塞ぐ事だけ考えて欲しかった。

部屋に入る前にはあった形だけの抵抗は、ルルーシュが扉を閉めた途端ピタリと止まった。
スザクはベットに座ったまま動かない。
俯いて表情が覗えなくても、先程と同じく硬直したように変わっていないのは動かない空気で感じ取れた。
クラブハウスへ向かう道すがら、止まる事無く呟いていた言葉がルルーシュの鼓膜を揺らす事も無い。
「仕方が無かったんだ」「ああするしかなかった」と狂ったオルゴールのように呪詛にも似た同じ旋律だけを繰り返すスザクに、ルルーシュは何も言わなかった。
何か一言でもそれに触れてしまえば、スザクの精神はもたない。
(「あいつは口から出任せを言ったんだ」「気にするな、スザクがそんな事する筈が無いだろう?」とでも言えと? …馬鹿らしい)
口先だけの言葉など、スザクを追い詰めるだけだ。
スザクは知らなくても、ルルーシュはマオが人の心を読み取れるギアスを持っていた事を知っている。
マオの言葉は一分の嘘無く真実であると知っている。

(――なんて、皮肉だろう。スザク。)

父親を憎んでいるルルーシュではなく父親を慕っていたスザクこそが、その手をゲンブの血で汚したのだ。
スザクの潔癖過ぎる思想と正義感は、7年前の罪からの逃避でしかない。

動かないスザクを同じように微妙だにせず見つめていたルルーシュは静かにベルトを解いて制服の上着を脱ぎ捨てた。ほんの微かな衣擦れの音と共に、それはカーペットの敷かれた床に落ちる。
(――…皺に、なるかな)
これから自分が起こそうとしている行動の気狂いさから考えれば、酷く冷静な自分がルルーシュの行動を、そう評した。
『いつだって自分の行動を冷めた眼で見ている批評家の自分がいて――』
愛する女の腕の中、愛する女に殺された男の言葉を思い出す。
マオは人の中身を読み取るのと同じに、精神的急所を突く事が病的に上手かった。溢れ込んでくる膨大な情報の中からその部分だけを的確に読み取る事は至難の技だろうに、マオは子供じみた言動と精神には似つかわしくない、不釣合いなほど頭の回転が速かった。
けれど、同時に『子供』であるから、、どこまでも自分の「敵」には残酷になれる。
ルルーシュだけに集中してギアスをかけていたのだから、マオはきっと判っていてスザクを壊そうとした。ルルーシュにとって、それがどれ程の意味と影響を与えるか。ルルーシュがスザクに向ける感情の意味を判って。

ソックスごと靴を脱いで裸足になれば、堅く、毛足の短いカーペットがルルーシュの足裏をちくりと刺す。
それを警告のように受けとめて、それでもスザクへ向かう足を止めなかった。
床に膝をついて、真下から見上げたスザクの表情は予想通り恐怖に引き攣ったまま固まっている。凍りついたみどりにルルーシュの顔が写っているのに、認識しようとしないスザクに痛ましさと僅かな寂しさを覚えながら、ルルーシュはスザクのささくれ立った右手をとった。
握り締められたまま硬直している指を一本一本ゆっくりと伸ばしてゆく。小指に差し掛かった所で小さな4つの傷痕を見付けて、ルルーシュは知らず知らずの内に緊張していた内心が解けていくのを感じた。
(やっぱりお前は偉大だよ、アーサー)
マシンガンも礼拝堂の分厚いステンドグラスは少しもスザクを傷付けなかったのに、あの猫だけがスザクに痕を残せる。
日常の、あと。

血が滲んだまま固まっているそこに、ルルーシュは舌を這わせた。母猫が子供の傷口にするように。
途端、びくりとスザクの肩が大きく跳ねたのを感じて、ルルーシュは舌をそのままに目だけでスザクをちろりと見上げる。揺れ動く翡翠が今度はきちんとルルーシュを認識して、それでも拒絶も偽りもない事にルルーシュはホッとして目を細めた。そのまま、血を舐めとる為に舌を絡めれば、視線を合わせたままのスザクの咽が、ごくり、と歪な動きを見せるのに首を傾げた。
角度を変えた事で、ルルーシュの白い首筋とぬばたまの黒髪との色彩の対比をスザクの眼前に晒す。意図、せずして。
また、ごくり、と。
スザクの咽が鳴った。
(――スザク?)
やはり、嫌なのだろうか。
気持ち悪いのだろうか。
思ったが、ルルーシュは行為を止めるつもりは無かった。

『人の体温は涙に効くって、お母様が教えてくれました』
その言葉を言い訳にスザクにぬくもりを押し付けようとする自分を、母はなんと言うだろうか。
愚かな子と悲しむだろうか。憐れな子と嘆くだろうか。
(それでも、構わないのです。…母上)
自分の身体で以って、ほんの僅かでもスザクが心地好さを感じてくれるなら。
それで、一刻だけスザクを得られるなら。
(だって、スザクが――)

ないて、いる。

音も無く、涙も無く。
けれど7年前のあの3人で歩いた死海から、ずっと。
あの場所で、子供のまま立ち尽くしている。

『徹底抗戦を唱えていた父親を殺せば戦争が終わる?! 子供の発想だ!』

そう、スザクは「子供」だった。
政治の事など本当の意味では何一つとして知らず、父親と周囲の言う事をそのまま信じていた。
徹底抗戦の道こそが正しいのだと、信じていた。
それが日本にとってどんな意味を持つのかも、どれ程の屍を生み出すのかも理解しないままに。
あの夏の日、異臭を放つ死体の山を目の当たりにするまで。
一滴の疑いすら含まずにただただ信じていた。

けれど、それは当たり前の事だった。
親の言う事を信じるのは、あの年齢の子供にとっては当たり前の事だったのだ。

(――お前の、涙が少しでも止まるなら、俺は、)

言葉を発しようとするスザクの口をルルーシュは自身の唇で塞ぐ。
戸惑いも、否定も、拒絶も。
何も、聞きたくなかった。








2007.02.08 羊達の沈黙-1 end