溝口が行くかと聞き、真矢が間髪いれずに行くと答える。
それは予想された問答だ。

「馬鹿げてる」

総士自身、驚くぐらい冷たい声がその場を打った。
真矢に集中していた数多の視線が自分に向けられるのを――特に一騎の父である文彦の視線を――意図的に感覚から排除しながら、意識のみで真矢だけを見据えて総士は言い放った。視線は向けぬまま。
「――…一騎を、自分の意思で島を出て行った者を迎えに行く?この状況下でか。
既にマークエルフは新国連の手に渡っている。
モルドヴァ基地はフェストゥムに襲撃され壊滅状態なのは今流されている映像からしても明らかです。」
「だから!だから助けに行かなきゃっ、」
「ファフナーを奪還する事は不可能だ。真壁一騎の救出にしても、その為に島の戦力は持ち出す事は出来ない。
そんな状態で、こんな状況のモルドヴァ基地に向かう許可など出すと思っているのか」
「いやいや、皆城戦闘指揮官どのぉー?悪いが俺には――」
「あなたに関しては僕の指揮下にはありません。司令が黙認するのであれば僕にそれを止める術はありません」
ぴしゃりと、言ってのける。
「けれど遠見真矢は別です」
階下で憤りに息を呑む音が聞こえた。
けれど総士はわざわざ下を向くことはしない。
「彼女はファフナー予備搭乗者として僕の管理下にあります。彼女を連れていく事に許可は出しません。
行くならお一人で行ってらして下さい」
「皆城君っ!」
「たとえ乗ることが出来ないとしても、パイロット候補を、島の人間を無意味な危険に晒すつもりはない」
眼前のモニターに目を釘付けにされながら、総士は淡々と言葉を紡ぐ。
目の前では一騎が新国連のファフナーに似た機体に乗って戦っている。総士の目の前で、けれど腕が千切れるまで手を伸ばしても、決して触れられない場所で。力の限り叫んでも、何一つ届かない場所で。
読心能力に対抗する機能が搭載されているわけでもないのに、紙一重で敵の攻撃を掻い潜り、反撃し、友軍機を援護までしてのける。機体における性能差のない、グノーシスモデルの凡庸機で。
一騎が、総士のいない場所で戦っている。
「…それに、この状況下で一騎が生き残れるとは思えない」
胸を支配する感情は安堵だろうか、それとも絶望だろうか。
少なくとも、人の言語では言い表す言葉の無いものだ。この孤独と寂寥は。
(…おまえが、)
どこかで、走っている。
自分のいない場所で。
たった、ひとりで。
苦しみ、もがき喘ぎながら、傷付いても、それでもまっすぐに前を向いて走っていく。

総士がいなくても。

遮るものも跳び越えて、重力にも縛られずに、何よりも疾く、誰にも追いつけない速さで。
(知っていたさ)
それが、真壁一騎の強さだった。
本質だった。
総士が5年もの間覆い隠して、失わせていた輝きだ。
焦がれてやまない一騎だけの光だ。
(ほんとうは、僕こそが…お前の枷だったんだ)
独りで戦えないのは、ほんとうは――。
モニターの映像が切り替わっていくのに合わせて、総士も視界を遮断した。おそらく奮戦する機体の映像は、人類に精神的な打撃を与えるには不適格だとフェストゥム側も判断したのだろう。確実に、敵は人類の思考から高度な判断力を身につけ始めていた。
また対策を考えなければならない。
残された稚拙なパイロットを使うしか手段は無い。
3人よりもたった一人がいた方が戦術に幅が出来るというのもおかしな話だ。
(一騎がいれば、こんな事にはならなかったのに)
日増しに一騎の不在を反芻する回数が増えていく。自覚的に。あらゆる全てに対して苛立ちばかりが降り積もる。
「よしんば生存していたとしても、自発的に島を出て行ったのなら、」
初めから奪われた自由。意志の無い人形のように、ただ命じられ実行するだけの日々。「日常」と「現実」の、狂って嗤いだしそうな壊滅的なまでの温度差。
(お前がいなければ、)
「一騎が島を疎んでいた可能性もある。」
憎んでいたのは。

ほんとうは、誰だったのか。

「…なに、言ってるの皆城君」
愕然とした面持ちで、真矢が言った。
信じられないと、その口調が、目が、雄弁に物語っていた。
取り返せない失言だったことは、総士だって熟知している。
「ふざけないでよ!
一騎君が、一騎君がそんな風に思ってるって、本気で思ってるの?!
そんな気持ちで戦ってたって、どうしてそんなこと言うのっ?!
……翔子は、」
ぐっと、真矢は喉に力を入れた。亡くした親友の事を話すとき、彼女はいつだってそうする。余すところなく反芻するように。
「翔子が戦ったのは、一騎君の為なんだよ?!
一騎君の島を護るためにっ、一騎君の帰ってくる場所を護るために!島の皆を…一騎君が愛した人達の住む場所を護ろうとして戦ったんだよ?!なのに何で皆城君がそんなこと言うの?!
一騎君がこの島の事、ここにいる人達の事っ、みんな大好きだって!翔子はわかってたのに!」
「真矢、止めなさい!」
激高した真矢を落ち着かせようと弓子が声をかける。
しかし彼女には何も聞こえてはいない。
「皆城君、最期まで翔子の言葉、聞いてくれてたんでしょう?
なのに、なんでそんなこと言うのよ……」
まっすぐに、真矢は総士をねめつける。
「皆城君こそ、」
一瞬だけ、そのサヴァン症候群を発現した双眸が辛そうに細められる。
微かな逡巡がよぎり、すぐに掻き消される様を総士は冷静に見詰めた。この時までは。
「…皆城君は、本当に一騎君の『いない』島を守ることが出来るの?」
「なに?」
「一騎君の存在しない島を!一騎君が帰って来ない、……一騎君が嫌ってたかもしれない場所を!
皆城君は本当に守ろうと思えるのっ?!」
「…君は、自分が何を言っているのか判っているのか」
「分かってるよ!少なくとも皆城君よりもは分かってるわよ!!」
「僕は、この島を守る為に生まれた。それ以外には興味もない。この島で生きる者として島の安全を何より優先して守ることは当然の義務だ!一騎は関係ない!」
「ほらっ、わかってないじゃない!」
「何が!」
「興味ないとか義務とか、皆城君はいつだってそう!皆城君の意思はどこにあるの?!」
「…僕の意思も感情も島の防衛より優先される事項は何一つない」

「じゃあ皆城君はどこにいるっていうの?!」

絶叫が、自分の脳蓋を打ち貫くのを総士は感じた。
「どこにもいないじゃない!」
それは、言ってはならない一言だ。
「そうやって自分にも周りにも嘘ばっかりついて!
本当は自分が迎えに行きたい癖に!行けないからってあたしの邪魔しないで!」
まっすぐに、真矢は手を伸ばす。翔子がそうしたように、真っ直ぐほしいものへと。
正直に。
駆けていく一騎を追いかけながら。
一歩も動く事の出来ない総士を置き去りにして。
「皆城君がこの島を守ろうとしたのは一騎君がいたからよ!
それ以外の何があるっていうの!全部嫌いだった癖に!」
「君がっ、僕の何を判るって言うんだ!」
押し留めようとする自分を無視して、恫喝が喉を裂いた。
こんなことを真矢に言っても意味がないと理解しているのに、並列したいくつもの感情を抑え付けながらも遠見真矢に対する苛立ちが噴出する。
遠見真矢は触れてはならない一線に触れた。
たとえ誰であろうと、その言葉だけは許すわけにはいかなかった。
左目の傷と、蓄積され続けた一騎の5年間もの痛みにかけても。
その領域に、一騎と自分以外を立ち入らせるつもりはない。絶対に。
「パイロットでもない、ファフナーに乗ったことも無い君が!」
「判んないよ!でもわかっちゃうんだもの!!」
総士の怒号にも少しも怯まず、声を張り上げる。
唐突なる『敵』の襲来。暴かれた島の本質に、がらりと変化する周囲の人間。親友の死と、それなのに戦えない孤独感。
何よりも総士の矛盾と理不尽に対する積み重なったストレスが、真矢の感情を爆発させて追い立てている事は真矢のような『眼』を持たない総士でも見て取れた。
それでも、止まらなかった。
自制も、真矢を落ち着かせようとも、思わなかった。
相対さねばならなかった。
対峙して、否定し尽くさなければならなかった。
「…ぼくは、ここにいる」
ぎっ…と、左目に力を入れる。どれだけ集中しようとも、何も写しはしない視界こそが傷の存在を証明している。一騎が総士に与えた、痛みと傷という祝福。

拒絶による、存在の許容と確立。
総士にとっての、存在の定義。
それを、誰にも否定させはしない。絶対に。

訪れる弾劾を、受け流そうとする意志は激情に吹き飛ばされる。
言っても仕方のない事だ。
今は遠見真矢を抑え込む事が肝要なのだ。
彼女を危険に曝すわけにはいかない。
わかっている。
なのに。

それでも、それは逆鱗だった。

「何も言わずに、勝手に島を出て行ったのは一騎だ!」

いくら言い放っても、何も変わりはしない。
責めるべきは自分自身であり、今ここで言葉を尽くそうと、現実は変わらない。
なにも、報われはしない。

一騎は、帰って来ない。


真壁一騎が、ここにいない。


「なら話せばよかったじゃないっ!一騎君が島にいるうちに!!」

あらん限りの力で、真矢も叫び返した。
もはや外聞も周囲も気遣いもそこには無かった。
「一騎君を縛って、決め付けてっ命令して!なのに拒絶されるのが怖くって話そうとした一騎君を拒絶して追い詰めたのはあなたじゃない!
一騎君に甘えて寄りかかって、それなのに一騎君の支えようとする手を振り払って傷付けたのは皆城君じゃない!!」
それは憤りだった。
怒りによく似た、けれど全く別種の激しい悲しみだ。
感情的になって興奮した眦に涙さえ浮かべて、それでもその双眸から、全身から、真矢は感情をまっすぐに総士にぶつけてくる。
突き付けてくる。
総士の感情こそを、彼女は突き付けるのだ。
目を逸らす事など許しはしないと。
幼いころからひた隠しにしてきた、いくつもの折り重なって並列する総士の自我を。たった一人の少年に向けられる、屈折して矛盾しきった醜さを露呈させるのだ。白日の下に。
…慈しみさえ込めて。
「…話せば、よかったじゃない。一騎君と。素直に、本当の、皆城君の気持ちを。
一緒に戦ってほしいって。一緒にいてほしいって。死なないでほしいって。…翔子や春日井君みたくいなくなって欲しくないって。ファフナーごと、島の為に死んでほしくないから、ファフナーと一緒に無事に帰ってきてほしいって。
でも逃げてほしいって。
…どこでもいいから生きていてほしいって。犠牲には、なってほしくないって。

それでも、一緒に島を守って生きていってほしいって。

言えばよかったじゃない。一騎君が皆城君を拒絶する筈なんてないのに。全部きっと受け入れて、受け止めてくれるのに。」
遠見真矢の疎ましさは、人の隠してきたものを、見つけ出す事でも何でもない。
それを、相手に伝えず、沈黙し隠匿することで互いを守ってきた、その賢しさだった。
それをこそ、総士は疎み、信頼し、何よりも安堵していた。一騎に、彼だけには伝わる事は無いと。
「……本当に、君のその目は忌々しいな」
噛み砕いても構わないと、奥歯を噛み締める。顎の骨にかかる負荷と狭まる呼気が、総士の声を更に低くする。
「見させてるのは皆城君だよ」
いっそ殺意さえ感じる視線でねめつけられながらも、真矢は気丈に返す。
その賢しさで以って、真矢は総士に距離をとり、黙秘し牽制していた。
なのに。真矢は普段の賢しさも自制もかなぐり捨てて叫ぶ。
皆城総士という個の暴露と罵倒を。ここにはいないたった一人の為の。
「…君が行っても、何も出来ないぞ」
「何も出来なくても、あたしは、何もしないままでいたくない。…一騎君の為に、なにかしたいもの」
事も無げに、真矢は言う。
総士が決して言えない一言を。
義務も責務も、他人から押しつけられた何もかもを押し退けて、純粋に、至って単純ですべて感情のまま、たった一人に帰結するその行動理念を。
「あたし、行くよ。一騎君のところに。一騎君と話すよ、皆城君。
なんで島を出てっちゃったのか聞いて、本当はどうしたいのか聞いて、帰ろうって、言うよ。
何も出来なくても、一騎君と話すくらいはできるもの」
皆城君は、なにをするの。
ひたりと、眼差しを総士に据えて、真矢は問いかけてくる。
どこまでも自分の感情のままに。――只管に、ただ、真壁一騎の為に。

真壁一騎の為に、皆城総士はなにをするのかと。

「あたし、行きます。」

それは勝利宣言に等しいものだった。





階下を駆けてゆく足音がだんだんと小さくなっていくのを聞きとりながら、総士は何も浮かんでいない虚空を睨み続ける。
大人達の気遣いによる無関心が有り難かった。
今何を言われようとも、冷静に対処できる自信が総士にはない。
彼女の言葉が、脳の全土を力任せに揺らし続けていた。

『本当に一騎君の『いない』島を守ることが出来るの?』


出来もしない癖に、と誰かが背後で嗤った。



酷く、自分そっくりの声音で。






2011.01.23 世界の守護者は誰であったか end