眼下に広がる光景に、操は息を吐いた。
操達フェストゥムの群との戦闘で、決して無傷とはいかないものの竜宮島は変わらずそこに存在していた。
攻撃の影響で植物の一部は枯れ果て、沿岸部や随所にクレーター状の傷跡が残り島の内部機構を晒している。それでも、島のコアが成長期を終えた今となっては、それは「軽度」の損傷に分類されるのだ。
取り戻せない「人的被害」ではないから。
物質的被害であれば、いつの日か修復が可能だ。
人類軍の戦闘機も一度の爆撃だけで撤退していったらしい。
(よかった)
素直に、そう思えた。
多くの同族が喪われ、痛みと恐怖と憎しみが蔓延していた戦場で、それなのに腹の底の深く冥いところから沸き上がるドロドロした憎しみではなく、今の空のように穏やかに多くのものの――フェストゥムと人類双方の生存を喜び安堵出来る自分が少し誇らしかった。
空は、青く透き通って、穏やかに全てのものの上に存在している。
戦うものの居ない、静かな蒼穹。
『情報』と言う概念の下、操はこの空が、地球の大気が本当は青いわけでもなければ、多くの汚染物質や有害な不可視光線の電磁波が降り注いでいる事を知っている。
でも、そんな事どうでもいいのだ。
操は、操自身の感性で以って、ただこの蒼を美しいと感じ、操自身の感情で以って好きだと思った。
そして同じように、操の空を綺麗だと言ってくれる存在がいる。
この、空の下に。
大切なのは、そんな単純で簡単な、それだけのことなのだ。
そしてそれが、どれだけ稀有なことなのか。
それを理解している。
優しい大気に包まれてふよふよ浮いている操の遥か下方に、その大切な人達がいる。
空の青と光をを写し取って、蒼い海がきらきら輝く。
島の防衛設備やファフナーの残骸がさざ波と共に打ち寄せる中、漆黒の機体が純白の機体を支えるようにして、寄り添い合っている。
その足元には、独特の形をした細い楕円状の、まだ開かれていない2つのコクピット。
(よかったね、総士)
操と総士は間に合った。
総士は、一騎を護りきれた。
(よかったね、一騎)
君の大切な人が還ってくるよ。
操は微笑った。
肉体があれば、泣いてさえいたかもしれない。
今の操に、物質的質量は無い。
人の肉体は総士へと置いてきた。返した、といった方が正しいかもしれない。
フェストゥムとしての実体も、コアも人類軍の核攻撃で消滅した。
それでも、操はここにいる。
こうして、確かに存在し続けている。
彼らを消さずに済んだその事が、こんなにも嬉しく、誇らしい。
波間に浮遊する金属片が、日差しを浴びて静かに光を放つ。破壊の爪痕はとても痛々しいものだけれど、それでも彼が、彼らがそこにいるというだけで、操の眼にはまるで幻想的な光景にさえ映る。
ゆっくりと降下して、2つのうちの片方に近づく。
ハッチのシステムを解除しようとして、けれど開くのに些か躊躇したのは、一騎の父親との会話を思い出したからかもしれない。
『箱の中の猫』
存在の有無の、可能性の話。
どこにもいない。けれど、そこにいる。
操の一度目の出撃から、二度目に至るまでマーク・ニヒトの中にマーク・ザインごと閉じ込めていた一騎の存在は、まさしくそれだった。
結局、一騎は力技で無理やり出て来てしまったけれど。
『どこにもない』ものを、そこに『存在させる』、同化の逆転現象。
存在を自分から相手と溶け合わせて、分離させるような。無茶苦茶で、フェストゥムにとてもよく似た、まるで対極の行動。
(本当に、君は人類の範疇をを超えちゃってるよ。一騎)
それでも一騎は人のままだ。
彼自身が、それを望むから。
操は透けて見える右手を翳して、システムを解除する。戦闘でどこか歪んだか、鈍い音をたててゆっくりハッチが開いていく。
――その中に、一騎がいる。
その事に、どうしようもなく胸に迫るものがある。
やわらかく、胸を刺す痛み。
痛くて、仄かに切ないような、それなのに少しも悲しくない、不思議な感情。
至近距離での核弾頭が爆発した衝撃に、意識をブランクさせたのか、一騎はぐったりと眼を瞑っている。
体重が無くても圧し掛かるのは流石に憚られて、空気だけをかき分けて、顔を近付けた。
しばらく、一騎の顔も見れなくなる。
相変わらず色素の欠乏した肌に張り付いた、しっとりと水気を含んだ黒い髪の対比がその白さを余計に引き立てているが、特に血圧や血の気が下がっている様子は窺えない。
呼吸もバイタルも正常値で穏やかに落ち着いている。
まるで眠っているみたいだ。
本当はもう一度、面と向かって話がしたかったが、我儘は言うまい。
操はそっと気を失ったままの一騎の瞼にそっと口付けた。
途端、未だ僅かに繋がりが残ったままの総士からどこか刺々しい感触が寄越されたが、操は気にしない。
このくらいの接触は、許されてしかるべきだ。
(もういなくなってもいいなんて思わないでね)
一騎がいなくなったら、操は悲しい。
汗で僅かに湿りを帯びた前髪を掻き分けて、もう片方の瞳を覆う薄い肉に、唇を落とす。
肉体のない今、本来なら接触する事も出来ない筈なのに、一騎は無意識に受け入れてくれる。
だからこそ、触れられる。
操のこころが甘く疼く。
それを幸福と呼ぶのだと、今の操は知っている。
両目を覆うように、手を翳す。
指先がまつ毛に触れて、少しくすぐったい。
指は、こんな風に幸せだと感じない。だから、操は指じゃない。
ただ操の指はこうして誰かのあたたかさや柔らかさを感じてくれる。
(おれは、俺だよ)
かつての問いに、漸く答えられる。
操は、操だ。
それ以外の何物でもない。
神様の指でもなく、いくつもの並列した同一の存在でもない。
操は、この掌の指先まで、誰にも変わる事の出来ない『来主操』という単一の存在だ。
その手の先に、そっと力を込める。
人体の、眼球そのものと脳に直結している視神経の構成物質を読み取って、そこにある筈の無い障害を取り除く。初めから組み込まれているミールの因子とはまた別の、後付けのフェストゥムの『残骸』を消し去る。
ある意味、操のこの行為は一騎の存在の一部を造り替えると言っても過言ではないだろう。
ファフナーに乗る前の、一騎。
マーク・ザインと生まれなおした一騎。
空でさえも見る事の出来なかった一騎。
そして、今の一騎。
他者の手によって、或いは自らの意思で何度も何度も変わっていった一騎。
変わる事は怖いと言って、それでも全て受け入れ、そして変わらなかったこども。
どれも決して同一ではない、違う存在だ。
それでも、同じ『一騎』なのだ。
それが今の操には理解出来た。
あの時は理解出来なかった自分とは違う存在の、それでも同じ操なら。
操も変わっていく。
造り替えられていく。それでも、こわくない。
ふるりと、手の下の、一騎の眼球の震えが伝わってくる。
もうすぐ目覚めるだろう。
手を離すことはせず、操はそのまま一騎の頬に手を滑らせた。
彼の痛みの無い安らかな表情に、操の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
一騎がここにいてくれて、幸せだった。
幸せだと、感じれる事が嬉しかった。
――あの日、一騎は操に何も与えないと言った。
けれど、それはやっぱり偽りだ。
一騎は操にこころをくれた。
悲しみを、歓びを、求めることを。
それを感じるこころがあることを、操に教えてくれた。
総士の左目のように、操のこころにつけられた幾つもの『傷』が、操を操にしてくれた。
多分、こころとか命と呼ばれるものは、そこに在るだけでは駄目なのだ。
きっと。
ただ茫然と佇んでいるだけではなく、誰かとぶつかって、接して、沢山の『嬉しい』と『悲しい』幾多もの傷を刻んでいかなければならないのだ。
ひとが、絆とか思い出と呼ぶ、それら。
その傷が、こころをこころたらしめる。
それを知らしめてくれた。
『生まれなおす』という、選択肢をくれた。
それは、紛れもない祝福だ。
大切な、贈りもの。
少なくとも、操にとっては。
(ねぇ一騎、)
起こさぬよう、静かに呼びかける。
(君が、すきだよ)
滑らかな頤を、そっと撫ぜる。
柔らかな感触が知覚される。実際の指など無いのに。
きっと、一騎は知らない。
どれ程のものを、操に与えてくれたのか。
だから操は「ここ」に、『存在』していられる。
質量も、コアもなく、フェストゥムとしての実体を無くしながらも、『個』としての『存在』を存続させていられる。
――かつて、この島のコアは自分の存在している現象を『夢』だと言った。
なら、操の存在はおそらく『奇跡』と言うのだ。
新しい、分岐。
生まれなおす事は、もう怖くない。
自分が自分でいなくなる恐怖はもう感じない。
一騎が教えてくれた。
変化は、今までの自分の消去でも変貌でもなく、ひとつの成長だと。
操は、どんなに変わっても『来主操』の存在のままだ。
一騎が『真壁一騎』であることを止めないように。
そう望む事が、今であれば叶うのだ。
彼の辿った路を、操も同じように、けれど同一ではない道程を、進む。操の神様と一緒に。
(君のくれた『痛み』を抱えて、いきて、いく)
フェストゥムに、『生』は無い。ただそこに『いる』か『いない』か、存在と無を繰り返すだけ。
けれど、今、この島のミールが理解したように、操も理解できる。
いきるということを。
変わりながら、進んでいく。
生きていける。
ひとのように。
…今なら、わかる。
操は、ひとになりたかった。「皆城総士」という人間に。
総士の中の空を、記憶を、感情を共有して、彼に惹かれて、彼の中の一騎に引き寄せられた。
思い込みのように、一騎を慕った。
ほんものに出逢って、彼は恐くて優しくて、厳しくて、そして嘘吐きで意地悪で、何よりあたたかかった。
総士になれば、一騎に好きになってもらえると勘違いさえした。
だから、ひとになりたかった。
一騎に、好きになって欲しかった。
でももうそんな事は思わない。
操は、人にはならない。
人のような、けれど人とは違う存在。
(一騎、)
フェストゥムのような、人間。
人間のような、フェストゥム。
(きみが、君達が好きだよ)
そしてフェストゥムから『還った』人間。
ずっと背後でマーク・ニヒトのコクピットブロックが開く音がする。
一騎の大切な人がやっと還って来る。
この分岐が、生が何をもたらすのかはまだ分からないけれど。
(次に逢った時は、ちゃんと友達になろう。一騎)
視力を喪っていた双眸。
勝手に一騎の体をいじった操を彼は怒るだろうか。
それでも、一騎が空を見れないのは嫌だった。
思えば、一騎は操の顔さえ知らないのだ。
きっと一騎なら指先で感じてくれるだろうけれど、彼の指は操と手を繋ぐためにあるべきだ。
(ねぇ一騎、)
操のミールが呼んでいる。
方舟は遠ざかろうとしている。
行かなければならない。
神様は臆病で怖がりの、寂しがり屋だ。
(逢いにくるよ)
生まれなおすのに、どれだけの時がかかるのか。
いつになるか、操の神様でさえ知らない。
それでも。
(今度は俺の事も、待ってて。)
いつか、君に辿り着く。
そうして、たくさん綺麗なものを一緒に見よう。
いっぱい話して、ぶつかり合って、遊ぼう。
一緒に感じよう。
夢物語を、探そう。
そして、空を仰ぐのだ。
記憶の中のものでも、偽りのものでもない、ほんものの、空を。
いっしょに。
その眼で。
2011.02.18 君に贈る愛の唄 end